山形の英雄、最上義光
こんにちは。管理人のエスポワールです。今回は東北地方の山形を訪問した旅行記をまとめます。
地方を旅行すると、今までほとんど名前を聞いたことがなくても、その土地の英雄としてのポジションを盤石にしている人物がいます。山形藩初代藩主の最上義光(もがみよしあき)もそのような人物の一人です。
この躍動感にあふれた銅像のモデルが最上義光です。銅像が出来たのは1977年ということなので割と最近です。
戦場へ向かう際の陣頭指揮を執る様子を銅像にしたもので、「まめはでん六」で有名な地元の食品メーカー、でん六のオーナーの寄付により銅像が立ったそうです。
馬の後足二本で自重を支える銅像の構図が設計上難しかったらしいのですが、騎馬にしても、騎乗している人物にしても、まるでフランスのナポレオンの絵画の構図にそっくりだと思ったのが第一印象です。
こちらの銅像は山形城跡、東大手門にあります。
こちらは山形城の本丸跡の写真ですが天守はありません。
こちらも同じく最上義光歴史館前にある最上義光の銅像です。騎馬にまたがる銅像と比較すると非常に地味です。しかし本人は内政を重視し、和歌を好むような、政治家・文化人タイプの人物なので、こちらの方が実際のイメージに近いのかもしれません。
こちらの銅像も誰かに似ていると思ったら、佐賀県の鍋島直正でした。
最上義光博物館へ行く
こちらが最上義光歴史館です。
こちらの歴史館の展示で印象に残ったのが最上義明の娘・駒姫の資料です。
駒姫は東国一の美少女と名高いほどの美貌の持ち主でした。当時の関白であり、豊臣秀吉の甥である豊臣秀次は側室として駒姫を差し出すように義光に迫ります。当初、義光はその要求に対して駒姫が幼少であるという理由から断るのですが、最終的には度重なる要求に折れ、駒姫が15歳になったら嫁がせることを約束します。15歳になった駒姫は山形を出発し京都へ到着するのですが、その日に秀次は秀吉に対する謀反の疑いから処刑されるのです。そして、秀次の死だけでは満足しなかった秀吉はその家族まで処刑を行い、その中には未だに秀次と会ったことすらない駒姫も含まれていたのです。
戦国時代らしい悲しい話です。
尚、最上家は1622年に改易にあったため、残された資料が離散したりするなど、最上家に関する資料はあまり多くないそうです。
駒姫の墓へ行く
こちらが市内、専称寺にある、最上義光の娘・駒姫の墓です。
専称寺は駒姫の死を悲しんだ義光が市外にあった専称寺を山形市内に移転・建立したものです。駒姫の墓は敷地の外れにあります。
一連の事件における義光の怒りは大きく、義光は後の関ケ原の戦いでは徳川方の東軍に付きます。ただ、義光は関ケ原の現地に行ったわけではなく、領地に進軍してきた西軍の上杉家の家老である直江兼続と戦い(長谷堂城の戦い)勝利しています。
最上義光の墓へ行く
こちらが市内の光禅寺にある最上義光・最上家親・最上義俊の最上家三代の墓です。義光の政治力で戦国時代の乱世を乗り切った最上家でしたが、義光の死後、家親は3年で死亡、義俊が家督を継いで5年でお家騒動により最上家は改易されてしまいます。
こちらは義光とともに殉死した四人の家臣の墓です。
最上義光は関ケ原の戦い後の領地の拡大により、最終的には日本有数の大名になります。しかし、山形では英雄扱いされていても、残念ながら中央の権力者である豊臣秀吉、徳川家康との強固な服従関係なしには家督の存続が保証されないという、田舎の戦国大名の悲哀も最上義光から感じてしまうのです。