徳川家光による鎖国と江戸時代の安定した治世により成熟した日本文化
こんにちは。管理人のエスポワールです。今回は徳川家光の霊廟である日光輪王寺を紹介します。
徳川家光は武断政治と言われる幕府の強権政策によりペリー来航までの250年続く盤石な政治基盤を確立しました。戦争のない平和な世の中では国民は大衆芸能、娯楽や教養への興味や関心が高くなります。そして、それらが鎖国という環境で独自性や独創性が成熟していったのではないかと思います。
家光の生まれながらの将軍宣言と伊達政宗の恭順
そんな徳川家光には有名なエピソードがあります。2代目将軍秀忠が亡くなった際、家光が集まった諸大名に向けてこのように言いました。
「祖父や父は皆様方には大変協力いただいたようだが、私は生まれながらの将軍だ。だから、皆には私の家来として今後はふるまってもらう。何か不服があれば、国へ戻って戦の準備をしても結構」(意訳)
いきなりの宣戦布告のような家光の発言に全国の大名はざわつきます。そんな中、最初に発言したのが仙台藩の伊達政宗でした。
「そのような考えを持っている者は誰もいません。もし、このような命令に背くものがあれば私に討伐させてください」(意訳)
当時の伊達政宗は外様大名の筆頭格で、最も幕府に反旗を翻しそうな男です。それを聞いた他の大名は「あの伊達政宗がそういうなら今回は従うより他にない」と思ったことでしょう。危ない橋を渡るような二人の対話ですが、ひとまずは諸大名の反乱をけん制する効果はあったようです。
その後、参勤交代も家光によるものです。参勤交代は諸大名に経費を負担させたという意味では藩の財政状況を圧迫させた半面、江戸と地方の文化交流という功績も残しました。
徳川家光の霊廟は日光にある
徳川家光の霊廟は家康と同じく日光にあります。日光の社寺は世界遺産に登録されているますが、日光の社寺とは東照宮と二荒山神社と輪王寺を指します。日光へは2010年以来の訪問ですが、前回は東照宮の家康の霊廟と陽明門しか見てません。
そんな訳で、日光へ向かいました。
こちらがJR日光駅のホームにある貴賓室です。大正天皇が使用しました。
こちらが西参道付近にある潰れたコインロッカー屋です。コインロッカーが有人の商売として成り立っていた時代があったことに驚きます。
こちらが日光のウェルカムボードです。11か国語対応です。
こちらが輪王寺の本堂の入り口です。輪王寺は正確には本堂と家光の霊廟がある大猷院(だいゆういん)とその他の寺院群からなります。
こちらが輪王寺の本堂です。工事改修中で本堂が描かれた鉄板に覆われています。中の三仏堂は見学可能ですが、写真撮影は不可です。
家光の霊廟の前まではいけなかった
続いて今回の目的である家光の霊廟である大猷院、その奥に鎮座する家光の墓へ向かいます。
こちら、大猷院内の皇嘉門。その先に家光の墓があります。しかし、門が閉じられてその先に行けません。家光の墓前まで行けないのです。
写真中央、石垣の上に見える屋根の辺りに家光の墓があると推測します。祖父の家康よりも墓を質素にするようにという家光の遺言があったようです。
大猷院を出る時に窓口の方に、家光の墓は時期によっては一般公開するのかと聞いたところ、「通年で非公開です。そういえば20年ほど前に一度だけ公開したことがあったと聞いています。」との回答をいただきます。
調べてみたら2000年に家光没後350年を記念して特別に公開したらしいのです。となると、次の公開はおそらく没後400年後の2050年になります。このように、徳川家光の墓前まではいけませんでした。因みに二代将軍秀忠の墓は東京の芝公園の増上寺にあります。次は同じく日光東照宮の家康の霊廟へ向かいます。