乙巳の変(いっしのへん)と蘇我入鹿を巡る旅ー最近は大化の改新が645年と教わらないらしいー

最近は大化の改新が645年と教わらないらしい

こんにちは。管理人のエスポワールです。今回は奈良県明日香村の大化の改新の現場の旅行記となります。

ところで、最近は学校で大化改新を645年と教わらないらしいのです。正確には645年は中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺した事件(=乙巳の変)の年と定義し、大化の改新は646年以降の政治制度改革と教えているのです。つまり、従来であれば「大化の改新(645年)=暗殺事件+政治制度改革」であったところを、「乙巳の変(645年)=暗殺事件 大化の改新(646年以降)=政治制度改革」のように、事案を分離させているのです。

ただ、私が小学生だった30年前は「乙巳の変」なんて単語は教科書や資料集に出てきません。いつ頃から教え方が変わったのでしょうか。少し気になります。

それでは、歴史の現場を紹介していきます。

中大兄皇子と中臣鎌足が飛鳥寺の蹴鞠の会で出会う

こちらは飛鳥寺の写真です。

飛鳥寺は飛鳥時代の名前の由来の通り、その時代の中心地でした。飛鳥寺は蘇我馬子の発願により596年に創建された日本で最初の寺院です。この寺の蹴鞠の会で中大兄皇子と中臣鎌足が出会います。

こちらが飛鳥寺の中庭の写真です。現場は蹴鞠をするほど庭が広くはないのですが、当時は飛鳥寺が現在よりも敷地が広かったらしいです。

なぜかお寺の庭に懐かしいポストが設置されています。

こちらの写真は蹴鞠をしていた当時の鞠です。中臣鎌足を祀る談山神社から日本サッカー協会に寄贈されたものが日本サッカーミュージアムに展示されています。

尚、こちらの本堂に安置されている大仏です。日本最古の大仏で飛鳥寺の目玉です。

乙巳の変の現場とされる飛鳥板葺宮跡(あすかいたぶきのみやあと)

こちらが飛鳥板葺宮跡です。この場所が乙巳の変の現場とされており、当時の皇極天皇(中大兄皇子の母親)の宮殿跡です。現在は補修された井戸や柱の跡が残るのみです。

こちらは出土した木簡や土器から7世紀末頃の宮殿遺跡と推測されており、詳細は分かっていません。私有地の田んぼの中にあり、少し場所が分かりずらいです。

ここで中大兄皇子が蘇我入鹿の首を斬首したとされますが、その首がはるか800mほど飛んでいきます。

尚、この場所は舒明天皇(中大兄皇子の父親)と天武天皇(中大兄皇子の弟)の宮殿跡でもあると言われています。舒明天皇の時代は飛鳥岡本宮(あすかおかもとのみや)、天武天皇の時代は飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)という名称です。

蘇我入鹿の首塚と甘樫丘(あまかしのおか)

こちらが乙巳の変の際に斬られた蘇我入鹿の首がこの場所まで飛んできたという伝説の場所です。乙巳の変後に頻発した多くの災いは蘇我入鹿の怨霊によるものとされ、その怨霊を供養するために首塚が建てられました。

また、首塚の背後にある小高い丘は甘樫丘(あまかしのおか)と呼ばれ、蘇我氏の宮殿があった場所とされています。そして、蘇我入鹿の父親である蘇我蝦夷は入鹿の死を知り自害します。

尚、紹介の手順上前後するのですが、蘇我入鹿の首塚は飛鳥寺の西側にあります。また、蘇我入鹿の首塚、蘇我入鹿の怨霊伝説は三重県にもあります。

菖蒲池古墳は蘇我蝦夷と蘇我入鹿の墓なのだろうか

こちらの写真は菖蒲池古墳です。小高い丘の上に内部に2つの石棺があるのですが、小高い丘そのものが古墳の墓域でした。石室は人通りの多い道路からわき道に入り、竹藪の奥にあります。

ただ、被葬者に関しては正確には判明していません。しかし、当時の権力者であり、さらに石棺が2基あることから蘇我蝦夷と蘇我入鹿親子という説があります。確かに蘇我氏は間違いなく権力者であり、乙巳の変にて同じ時期に亡くなっていることからもこの説の信憑性は低くないと思います。

ただ、菖蒲池古墳は京都から奈良まで天皇陵や古墳を南北に直線状に繋いだ、通称「聖なるライン」上にあり、政敵であった蘇我氏の墓が菖蒲池古墳であることはおかしいという説もあります。

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