西南戦争と熊本城訪問記

復興が進む熊本城

こんにちは。管理人のエスポワールです。今回のテーマは西南戦争においておよそ50日間の籠城戦に臨んだ熊本城がテーマです。熊本城は籠城戦において籠城した側が守り切って最終的に勝利した数少ない城です。

また、2016年4月の熊本地震により大きな被害を受けた熊本城ですが、現在では天守に入場できるまで復興が進んでいます。ただ、石垣や堀を完全復旧させるまでにはあと15年ほどの時間がかかると見込まれています。

下の写真は2018年4月の熊本城です。

下の写真は2021年6月の熊本城です。

1606年、加藤清正による築城

1606年、肥後城主の加藤清正は中世から築かれていた千葉城と隈本城を統合し、新しく本丸を追加築城する形で現在の場所に熊本城の原型が完成しました。

築城した加藤清正は「築城の名手」と称され、熊本城の他にも名古屋城や江戸城の石垣の造成を担当しています。

上の写真は名古屋城にある加藤清正の像です。石垣の材料となる巨大な石を運ぶ部下たちを鼓舞している様子です。

上の写真は江戸城の富士見櫓です。こちらも加藤清正が築いた石垣と櫓です。

しかし、徳川家の権力が盤石となってからは大名同士の争いは禁止され、戦のない平和な時代が長く続きました。

1877年2月、西南戦争起こる

倒幕を実現した明治新政府は日本が近代国家になるためには伝統的な身分制度を廃止していくことが必須であると考え、いわゆる「武士」という身分を無くしました。

そして、今まで武士だった人々の中でも、明治新政府の役人や新政府軍の兵隊になれなかった元武士たちは制度上は「士族」と名乗ることができたものの、その生活は苦しくなっていきました。

そんな新政府の方針に不平を持った士族たちが政争に敗れて下野した西郷隆盛を担ぎ上げて起こした反乱が西南戦争です。

大軍を率いて上京する西郷隆盛が最初に新政府軍と衝突したのが熊本城に籠城した熊本鎮台(日本陸軍熊本部隊)でした。

上の写真は熊本鎮台司令長官の谷干城たにたてきです。

熊本城籠城戦

籠城する熊本鎮台の戦力3500に対して16000の戦力で熊本城を包囲した西郷隆盛ですが、鎮台側の砲撃により城門を突破できません。

こちらの写真は西大手櫓門(2018年)です。震災後2年経過してもこの状態。

こちらが熊本城の石垣。石垣の高さと急勾配な石垣の積み方が薩摩軍を寄せ付けませんでしたが、こちらも地震の影響で一部崩落しています。

その後、東京からの新政府軍が九州へ上陸すると、西南戦争の激戦地は熊本城から田原坂の野戦に移ります。

そして、西郷隆盛は速攻での熊本城攻略を諦め、兵糧攻めや水攻めといった長期戦に方針転換するのでした。

薩摩軍の鹿児島退却と西郷隆盛の最期

結局、熊本城を落とせず、田原坂での銃撃戦でも敗れた薩摩軍は宮崎・大分方面まで部隊の再編を図りながら転戦と敗退を繰り返します。そして、最後は故郷の鹿児島まで退却し、本陣を城山に置いたのでした。

こちらが市内城山にある本陣跡です。

城山から見える桜島の姿が素晴らしいです。

城山を新政府軍に包囲された頃には勝敗はすでに決まっていました。本陣まで追い詰められた西郷隆盛は城山中腹の洞窟に身を潜めます。

こちらが今でも残る洞窟痕です。

洞窟で5日間過ごし、覚悟を決めた西郷隆盛は洞窟を出た後に銃弾を受けます。そして、「晋どん、もうここらでよか」と従者の別府晋介に介錯を頼み最期を迎えます。

西郷隆盛の亡くなった場所には石碑が立っています。洞窟から数百メートルほどの距離です。

こうして「近代国家の生みの苦しみ」とも称される西南戦争は倒幕の立役者でもある西郷隆盛の死によって終わりました。

今なお残る熊本城出火の謎

西南戦争の舞台となった熊本城ですが、籠城戦の直前に今一つ理解に苦しむ出来事が起きています。それは、西南戦争直前に天守を含めて多くの建物が火災によって消失する事件が起きているのです。

薩摩軍による放火説、熊本鎮台が自ら火をつけたという自焼説、或いは台所などからの失火説が主な原因として考えられます。

放火説に関しては大砲や兵隊による物理的攻略が不可能だった熊本城に薩摩軍が放火できること自体が不可能だと思えるし、自焼説に関しては戦略上の意図が見出せません。

おそらく、不注意による失火が原因で、火元を管理していた担当者の処罰の記録なども戦災の混乱で失われたと考えるのが自然な感じがしますが、本当の原因は未だに謎です。

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