宮城県の震災被害概要
こんにちは。管理人のエスポワールです。今回は宮城県の東日本大震災の慰霊碑を紹介します。
宮城県の沿岸部は県内北部のリアス式海岸と県内中部南部の平野部に大別されます。県内北部では気仙沼市・南三陸町など市街地が津波に飲み込まれました。また、石巻市では今回の震災で最多の3700人以上の犠牲者が出ました。南部の沿岸部は人口密集地の津波直撃はなかったものの、地震の混乱と車両で非難する際に生じた渋滞により、身動きが取れないままそのまま津波に飲まれて犠牲となった方がいました。
気仙沼市
旧気仙沼向洋高校
こちらの気仙沼向洋高校の校舎は震災遺構として保存されています。津波の高さが校舎の3階の高さだったことが分かります。
校舎の裏側(北側)には瓦礫がいまだに残っています。
隣接する伝承館は開館時間外だった為に入館しませんでした。
写真の奥は周辺に比べて高台となっていますが、当時の津波の高さは高台の高さを上回りました。
大谷地区
こちらの慰霊碑は周辺の大谷三島地区の慰霊碑となります。自動車の塗装会社の駐車場内にあります。
本吉郡南三陸町
鎮魂の森
こちらの観音像は南三陸町歌津地区の高台の上に立つ観音像です。カーナビの仕様によっては場所が分かっていてもたどり着くのが難しいです。
民家の庭先にあるこちらの路地の先にあります。
石巻市
吉浜小跡地
こちらは石巻市北上地区の慰霊碑です。慰霊碑の後方には北上川の河口が見えます。津波は河川を逆流していきました。
大川小学校跡地
こちらが北上川から逆流する津波により教職員10名児童74名が犠牲になってしまった大川小学校です。
大川小学校では震災当時の避難誘導に対する学校側の過失を巡る裁判が行われていました。遺族側の主張のポイントは「津波の到来を予見して学校の裏山に避難誘導しなかったのは現場の学校側のミスではないか」というものです。
実際は周囲の安全確認と人員点呼を実施し、次の避難場所の決定に関しては現場でも議論していたようです。ただ、地震発生から津波到来までの50分間で現場を動けなかったのであれば、結果的に現場での議論に時間をかけすぎてしまったということになります。
しかし、この場合「津波が到達した事実を知っている人間が、当時の現場の人間も津波が来ることを予測可能だっただろう」と考える後知恵バイアスが強烈に働いていることも考慮する余地があります。
では、本当に予測が可能だったかのでしょうか。現場にいて生き残った方の証言をまとめた新聞記事や地図を見るだけでなく、実際に現場に行ってみることをお勧めします。瓦礫が撤去されて更地に近い状態になりつつある現場ですが何かヒントが発見できるかもしれません。
2018年4月、仙台高裁では学校側の過失を認定し23人の遺族へ14億円の支払いを決定します。その後、石巻市議会と県は最高裁判所への上告を決定するも、2019年10月に上告が退けられます。
5年がかりの争いの結果、遺族側の勝訴となりました。
雄勝病院跡地
こちらは入院患者40名全員が津波の犠牲となった雄勝病院跡地に立つモニュメントです。当時、こちらの病院では入院患者のほとんどが寝たきりの高齢者の為、高所へ避難すること自体が不可能でした。病院背後の裏山へ避難できた職員だけ犠牲を免れます。
こちらは雄勝で採掘される雄勝石で作成されたモニュメントです。深い黒と光沢が特徴で特産品の硯の原材料となります。
男鹿郡女川町
七十七銀行被災者慰霊碑
こちらのモニュメントは津波の犠牲になった七十七銀行女川支店の職員の家族により建てられました。モニュメントの解説に以下のようなことが書かれています。
走れば一分で行けた高台堀切山があったのに
なぜ目の前の高台ではなく屋上への避難指示が出されたのでしょうか
津波非難は高台へ行くことが大原則
銀行には一言「山へ逃げろ」と言ってほしかった
どんなに怖かっただろう
どんなに悔しかっただろう
どんなに悲しかっただろう
どんなに無念だっただろう
東日本大震災を教訓に職場の命を守れ
解説文から引用
家族を失った恨みの矛先を勤務先に向けるような慰霊碑も珍しいです。
市街地堀切山付近
こちらは女川市街地周辺地区で犠牲になった方の慰霊碑です。実際はもっと多くの方が犠牲になっていますが記名されているのは9名のみ。詳しい解説などはありませんでした。
女川いのちの石碑
こちらの石碑は女川中学校卒業生により建てられた石碑です。石碑には「津波が来た際にはこの場所より高い位置に避難する必要があるので決して石碑を移動させないでください」と書かれています。
石巻市
渡波地区
こちらは住宅地に建てられた慰霊碑です。渡波は「わたのは」と読みますが、過去の水害が連想される地名です。新しい石碑の後ろにある石碑は過去の災害のものです。
井内地区
こちらの井内地区は沿岸部ではないのですが付近の旧北上川を5キロ遡上した3mの津波が到達し、9名の方が犠牲となりました。
宮城県漁業組合
こちらは漁協により建てられた慰霊碑です。陸上と違って海底の瓦礫の撤去には3年かかると言われていました。
復興まちづくり情報館
こちらは慰霊碑ではありませんが、石巻市の地元新聞社による展示スペースです。
こちらが震災翌日の号外です。手書きによる壁新聞から当時の混乱の様子と状況を伝える新聞社の必死さが伝わってきます。
日和山公園
こちらは市内の高台の日和山(旧石巻城跡)です。かつては石巻市内の津波被害が一望できた場所です。
南浜つなぐ館
こちらは市内の震災被害伝承施設です。訪問時は閉館していました。
周辺が更地ですがかつては住宅密集地です。
被災地沿岸部ではよく見るのですが、こちらの表示の高さまで津波が到達しました。柱が立つ場所は海抜0mくらいです。
下釜地区
こちらは石巻市内の住宅地に立つ慰霊碑です。左側の慰霊碑は過去の震災時のものです。碑文は損傷が激しくて読解不可能でした。
東松島市
萬寳院仮本堂
こちらは市内の萬寳院(天台宗)の墓地に立つ慰霊碑です。墓誌に記載された故人の命日が3月11の方ばかりです。
敷地内にはかつての水害による慰霊碑もありました。
旧野蒜駅
こちらは津波被害を受けた仙石線野蒜駅(読み:のびるえき)の駅舎が震災の資料館となっています。
こちらは無残に破壊された券売機です。
駅舎の裏にはこのようなモニュメントが建っています。柱の土台には「鎮魂・復興・感謝」の単語が刻まれています。
旧東名駅周辺
野蒜駅の隣の駅になる東名駅には今は何もありません。更地となった一角にこちらの墓地と慰霊碑があります。こちらの墓地も本来の場所ではなく、震災以後に簡易的にこの場所に墓石がまとめられたと思われます。
塩釜市
千賀ノ浦緑地
こちらのモニュメントは「昇る太陽の塔」という名前で、デザインが全国からの公募で決定しました。
写真奥にあるショッピングセンターの建物の屋上は津波が来た際に買い物客や周辺の人々の避難場所となりました。こちらの周辺建物から津波が来た様子を撮影した動画がネット上にあるので 「塩釜 津波」で検索して興味のある方はご覧ください。
仙台市
せんだい3.11メモリアル交流館
こちらは仙台市営地下鉄東西線の終点の荒井駅構内にある震災関連施設です。
尚、仙台市営地下鉄東西線は2015年の開業なので、震災当時からあった建物・駅舎ではありません。
荒浜小学校跡地
仙台市は人口100万人を超える大都市ですが、津波の被害に会ったのは沿岸部の一部の人口密集地帯だけでした。その一部の人口密集地帯がこちらの荒浜地区です。震災前は「荒浜」という名前に似合わず波の静かな海水浴場がありました。
こちらの荒浜小学校では避難場所となった当時の様子が記録、展示されています。震災当時は屋上からヘリコプターで児童が救出された様子が中継されました。 このように、本来であれば土の校庭がアスファルトの駐車場になっています。
こちらは閉校記念碑です。
被害を受けた教室の様子です。被害を受けなかった3階以上のフロアに資料が展示されています。
破壊された二宮金次郎像が痛々しいです。
荒浜記憶の鐘
こちらが荒浜地区の海沿いに建つモニュメントです。「平穏」・「水平線と日の出」・「復興」をイメージしています。
周辺には破壊された建物の基礎が残っています。
柱・壁に囲まれた狭い空間であるトイレ・浴室が何とか形を残しました。
こちらの観音像は当時の津波と同じ高さで建てられています。震災前は周辺沿岸部に松林が植えられていて、近くまで来ても堤防や海が見えませんでした。
名取市
名取市震災メモリアル公園・遺構の広場
名取市の閖上地区にあるこちらの慰霊碑は震災の犠牲になった方が天に登っていく様子をイメージして建てられました。閖上地区は赤貝の産地として有名です。
こちらの写真のように人が住んでいる様子がないのにもかかわらず、道路工事や区画整備が進められています。津波被害を受けた沿岸部ではこのような風景をよく目にします。
こちらは慰霊碑近くにある日和山です。高さが6.3mの小高い丘ですが、高さ8.4mの津波の被害を避けるには少し高さが足りませんでした。神社の鳥居は伊勢神宮から譲り受けたものです。
岩沼市
千年希望の丘交流センター
こちらのメモリアルパークは滑走路に津波が押し寄せた仙台空港の近くにあります。離着陸する飛行機がよく見えます。
こちらはメモリアルパーク1号丘に建つモニュメントです。人と人が支えあう形をイメージしています。仙台空港から近いため県外から訪れる方が多いようです。空港周辺で営業しているレンタカー屋さんが多く、レンタカーを利用する方は返却前に立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
亘理郡
梅光園・福寿園跡
こちらはこの場所にあった福祉施設で犠牲になった方の名前が刻まれた慰霊碑です。こちらの福祉施設では入所者61名と職員26名が津波の犠牲になっています。雄勝病院の事例でも同様ですが、体が不自由で避難できずに津波の犠牲になった方は仕方がないと思います。ただ、津波が来ると分かっていて自分だけでも避難しようと思えばできたけれど、職業的良心からそれができなかった方が職員26名の中にいると思うと心が痛みます。
慰霊碑としては規模は大きくありませんが今回の慰霊碑巡りの中で最も心に残りました。
常磐山元自動車学校慰霊碑
こちらの慰霊碑はこの場所にあった津波で犠牲になった自動車学校の生徒と職員の慰霊碑です。石巻市の大川小学校と同様、適切な避難誘導を学校側が行わなかったとして遺族側が学校に損害賠償を求める訴訟を提起しました。現在は和解しています。
中浜小学校跡
こちらの中浜小学校跡は仙台市の荒浜小学校と同様に震災遺構として当時の姿を極力残した状態で保存されています。教員の判断で屋上へ避難したため津波の犠牲となった児童はいませんでした。
学校北側には周辺地区で亡くなった方の慰霊碑が立っています。
磯地区
宮城県最南端のこちらの慰霊碑は周辺の磯地区で亡くなった方のために建てられました。
次回に紹介する福島県の慰霊碑では市や町ではなく、磯地区の慰霊碑のように集落単位で建てられた慰霊碑が多くなります。