「75年は草木も生えぬ」程のインパクト、それが原爆
こんにちは。管理人のエスポワールです。今回は広島市の原爆関連慰霊碑を紹介します。
「75年は草木も生えぬ」というのは原爆実験計画(マンハッタン計画)に参加したハロルド・ジェイコブソン博士の言葉です。原爆の爆発時の熱線や爆風のような破壊力だけでなく、放射線を浴びた植物や生物に与える長期的な影響の大きさについて言及したものです。
ただ、ジェイコブソン博士自身がこの発言を撤回します。その理由は、「75年」という科学的根拠の薄さと原爆投下に対する糾弾を危惧した為です。
しかし、このような発言から原子爆弾の殺傷力の大きさを当時の科学者も十分理解していたということが分かります。
広島平和記念公園
1946年に爆心地に近い中島町内が中島公園として都市計画公園に指定され、1954年に建築家の丹下健三氏らによる設計によって開園しました。園内には多くの慰霊碑があります。
平和の門
こちらのモニュメントは平和大通りを挟んだ南側にあります。世界中の言語で「平和」と書かれています。2005年にフランスから寄贈されたもので平和記念公園内では最も新しいものです。
原爆国民学校教師と子どもの碑
平和記念公園の西側にあります。こちらは広島県の小中学生と教職員による募金によって建てられました。原爆投下当時の広島市内には学童疎開により3年生以上の生徒はあまりいませんでした。市内に残った1・2年生の生徒は空襲による建物の火災・延焼を防ぐ為に市街地の建物を間引きし、がれきの撤去作業をしていました。
原爆の子の像
平和記念公園北側にあるこちらの像は2歳で被爆してその10年後に白血病で亡くなった佐々木偵子さんがモデルとなっています。佐々木偵子さんが病床で折り鶴を折っていたいたことから千羽鶴が平和の象徴となりました。
平和の鐘
平和の鐘は1947年から置かれておりますが、こちらの鐘は現在は5代目の鐘になります。初代の鐘は朝鮮戦争による金属需要増加により盗難に遭ってます。
平和の時計塔
3本の鉄柱がねじれた先に球体の時計があります。毎日8時15分になると時報が鳴ります。広島のライオンズクラブによる寄贈です。しかし、平和記念公園の設計者である丹下健三氏はあまり多くのものを公園には置きたがらなかったようです。
原爆供養塔
こちらの供養塔は氏名不詳や一家全滅などで引き取り手のいない遺骨を供養するために建立されました。内部の納骨堂には今でも824柱の遺骨が眠っています。毎月6日には関係者により例祭が行われています。
広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)
平和記念公園の中心に位置するこちらの慰霊碑の石室には原爆被爆者の名前を記帳した名簿が納められています。「安らかに眠ってください過ちは繰り返しませぬから」の碑文の主語は何かという議論がありましたが、広島市の見解では主語は「人類全体」だそうです。
原爆ドーム(広島平和記念碑)
原爆の悲惨さを伝える代表的なこちらの記念碑は1996年に世界遺産に登録されました。原爆の爆心地から近すぎた為、衝撃波をほぼ真上から受けた形となり建物が全壊しませんでした。
原爆ドームと呼ばれる以前の建物は「広島県産業奨励館」という名称で県内の物産品の展示販売が行われていました。尚、「原爆ドーム」というネーミングは終戦後の1951年頃から市民の間から自然に呼ばれるようになったようです。
1945年8月6日8時15分
原爆投下約1時間前、アメリカ軍の気象観測機、ストレートフラッシュ号が広島市上空を通過しました。ストレートフラッシュ号は広島市上空を通過後、四国上空を飛行する原子力爆弾を積んだエノラ・ゲイ号に広島市上空の気象状況を報告します。
低い雲は小さい、中高度の雲は薄い、高度の雲は薄い、第一目標を爆撃せよ
この瞬間、広島市への原爆投下が決まりました。原爆投下に関しては「投下目標を必ず目視で確認すること」が決まっており、当日の天候次第では原爆投下が実施しない可能性がありました。
爆心地へいく
相生橋
相生橋は原爆投下の目標地点となったT字型の橋です。形状が珍しく上空からもその特徴がよく判別できることから原爆投下の目標地点に設定されました。
1945年8月6日8時15分、エノラ・ゲイ号より落下した原子力爆弾は約43秒落下して広島市の600m上空で核分裂を起こします。つまり、広島の原爆は地上に落下して爆発したのではなく広島市上空での爆発でした。
また、広島に投下された原子爆弾には「ウラン235」というウラン同位体が使用されましたが、実際に核分裂を起こしたウラン235はたった1kg程だそうです。
こちらが平和祈念資料館に展示してある1kgのウラン235のモデルです。たった小石程度の物質によって約89000人が死亡しました。
投下された原爆はやや東側に流されて43秒後に核分裂爆発を起こします。
爆心地
こちらが爆心地となっている場所です。空中で爆発したので正確には「爆心地の真下」ということになります。
現在、「島内科医院」という病院が建っていますが、被爆当時は島外科病院でした。被爆により80名あまりの職員と入院患者は即死となりました。
現在、爆心地には解説盤と共にお地蔵さんが立っています。
この場所から空を見上げて爆心地を確認します。
当日は晴天でした。原爆投下当日もこんな感じの雲の様子だったかもしれません。