丸岡城訪問記ー国宝を目指す天守と日本一短い手紙の館ー

現存天守12城シリーズ9回目は丸岡城

こんにちは。管理人のエスポワールです。現存天守12城シリーズの9回目は福井県丸岡城です。

福井県坂井市にある丸岡城は福井平野の東に位置しています。丸岡城へは、JR福井駅西口からローカルバスに乗車し、終点の丸岡城まで向かいます。乗車時は20人ほど乗客がいたのですが、終点までバスに乗ったのは私だけでした。乗車時間は40分ほどでした。

丸岡城は織田信長の命令で家臣の柴田勝家の甥にあたる柴田勝豊により1576年に築城されます。しかし、天守の建造年に関しては最近の調査(2019年3月)によれば1624年-1644年の間とされており、以前までアピールしていた日本最古の天守ではなくなったことが明らかになっています。

また、丸岡城は織田家や豊臣家や徳川家の家臣が歴代の城主となりますが、1695年に本多家が改易となると、それ以降は有馬家が明治維新まで城主を務めます。

国宝を目指す試み

このように、訪問した2018年11月の段階では丸岡城では国宝指定を受けるべく市民運動を展開していたのですが、日本最古ではないことが明らかになった今、地元の人の熱意はどうなってしまったのでしょうか。

今まで「日本最古の天守」としていた根拠は「望楼型」の天守の建築様式と、「野面積み」の石垣が戦国時代の城の特徴とされていたためです。そして、2015年に国宝となった松江城と同様、丸岡城の建造年を明らかにしていく過程で天守に使用されている木材を科学的に検証した際に、その木材が江戸時代のものと判明したのです。

結局、丸岡城が日本最古の天守ではなくなったという事実だけではなく、今まで日本最古の天守ということをアピールしてきたのは何だったのかというイメージが定着してしまいました。

「日本最古」のアピールのよりどころでもあった望楼型の天守と野面積みの石垣

それでは天守を紹介していきます。

こちらが望楼型の天守です。望楼型とは天守の上層部と下層部の形が違っていること、下層部の上に「物見やぐら・望楼」が乗っているような構造が特徴です。上層部と下層部の形が同じものを層塔型といいますが、違いがよく分からないことも多いです。

続いて天守台の石垣です。野面積みはこのように大きさの異なる石が積みあがった状態の為、石がそれぞれかみ合っていない状態の積み方です。つまり、大きな石の隙間を小さな石で埋めているような石垣の積み方が特徴です。

こちらが天守内の写真です。上層階へ移動する際の階段の傾斜が大きく、補助ロープが設置されています。

隣接する日本一短い手紙の館へ行く

こちらは丸岡城に隣接する日本一短い手紙の館です。1612年に城主となった本多成重の父親である本田重次が1575年の長篠の戦い最中に妻へあてた手紙、

一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ

が日本一短い手紙のルーツです。

館内は日本全国から家族に宛てた愛情あふれる短い手紙が展示されています。泣ける手紙だけでなく笑える手紙もあります。しかし、以下の点は注意が必要です。

  • 日本一短い手紙は本田重次が陣中より妻に宛てた手紙ですが、手紙を書いた当時、妻や息子が丸岡城で留守番していたわけではない。
  • 手紙の中にある「お仙」は後に丸岡城の城主になりますが、手紙を書いた父親の本田重次は丸岡城の城主ではありません。
  • それ以前に、手紙を書いた時点では丸岡城は築城されていません。

このように、「短い手紙」のエピソードやテーマはユニークだと思いますが、歴史的に見て丸岡城との接点は薄い感じがするのです。

日本一短い手紙の館の3階は丸岡城の展望室となっています。しかし、ここからの写真だと電線や電柱が写りこんでしまいます。

こちらは丸岡城に隣接するお土産屋兼レストランで食べた越前そばです。冬でも冷たいつゆで食べるのが特徴です。

タイトルとURLをコピーしました