川中島古戦場訪問記ー信玄・謙信の一騎打ちの謎ー

信玄・謙信一騎打ちの真偽がテーマ

こんにちは。管理人のエスポワールです。今回のテーマは以下の写真です。

こちらの銅像は長野市の川中島古戦場に建つ武田信玄と上杉謙信の銅像です。川中島での合戦の激しさと武田信玄と上杉謙信の勇猛な様子が非常によく表現されています。

しかし、こちらの銅像にあるような一騎打ちは本当に実現したのでしょうか。双方1万人以上の兵隊を率いる総大将同士が急接近することがそもそもあり得るのか、「総大将が死んだら負け」のような戦において、総大将が前面に出ること自体が双方にとってリスクが大きすぎるのではないかと思うからです。

それでは、川中島合戦における史料を以下に紹介するとともに、自分なりの考察をまとめたいと思います。

武田側の資料「甲陽軍鑑」による記述

武田側の史料である甲陽軍鑑は武田信玄の死後にまとめられました。本書では武田家及び、武田家家臣団に関する記述を中心に構成されています。 そして、江戸時代には本書をベースに「甲州流軍学」という軍事学が武士の間で学ばれていました

白手拭いで頭を包み、萌黄の胴衣を着て月毛の馬に乗った武者が腰掛に座る信玄に三太刀切り付け、信玄は腰掛から立ち上がるとこれを軍配で受け止めた。原大隅守が槍で馬を突くと騎馬武者は走り去った。後にこの騎馬武者が上杉謙信であった。

注:意訳しています

一騎打ちのイメージ通りの記述です。銅像の構図もこちらの記述を再現したものと言ってよいと思います。

しかし、甲陽軍鑑は武田家に伝わる史料なので「武田家寄り」の描写は当然許容範囲なのですが、 川中島の記述以外の部分で明らかに他の資料との比較などから、記述に誤りが多いことが指摘されています。 それ故、川中島の戦いの部分に関しても史料としての価値が疑われているのです。ただ、「史料としての価値が疑われている」という程度では一騎打ちの真偽の判断はできません。

上杉側の資料「上杉家御年譜」による記述

上杉家御年譜は上杉家歴代藩主の記録をまとめたものです。合計417巻に及ぶ歴史書です。

上杉勢の攻勢により本陣を崩された信玄は御幣川まで逃走していった。信玄を追いかけていった荒川伊豆守は3度信玄に斬りかかるが失敗してしまう。信玄は刀を抜く間もなく、軍配で受け流していった。

注:意訳しています

このように、上杉家御年譜では一騎打ちの状況が甲陽軍鑑とかなり異なります。そもそも、信玄に斬りかかった人物が謙信ですらありません。

当然、上杉家御年譜も上杉家に伝わる史料ですからこちらも「上杉家寄り」の描写であることを考慮しなければなりません。また、上杉家御年譜に関しては、上杉家の記録をまとめようと編纂を開始した時期が1674年となっており、川中島の戦いの100年以上後にまとめた記述であることも信憑性を疑うに足りる材料の一つだと思います。

謎が多い川中島の戦い

結局、川中島の戦いに関しては武田信玄と上杉謙信という戦国時代のスーパースターが対決した合戦にもかかわらず、武田側上杉側のどちらにも属していないような第三者的立場の記録がないのです。

それ故、真偽の検証が不十分なままに江戸時代に武士の間で普及した甲陽軍鑑の内容が歴史的事実であるかのように定着してしまったのではないでしょうか。

また、川中島合戦における重要人物である山本勘助でさえ甲陽軍鑑以外の歴史資料が極端に少なく、その存在自体が疑われていたのです。当然、山本勘助の存在自体が疑われれば、あの「キツツキ戦法」ですら怪しくなってしまい、そうなると4回目の川中島の合戦の全体像すらぼやけてしまいます。

結論は「史実に忠実である可能性が限りなく低い」

以上の点を踏まえると、私は信玄と謙信の一騎打ちの可能性はやはりなかったと思います。理由は、甲陽軍鑑よりも上杉家御年譜の記述の信憑性が高いと考えるからです。

注目すべき点は、上杉家御年譜では信玄に斬りかかった人物を「荒川伊豆守」と明記している点です。当然、上杉家御年譜では「上杉寄り」の立場で記述されますから、上杉謙信は英雄のように描かれてもよいはずです。つまり、一騎打ちが事実であれば、「謙信が信玄に襲い掛かっていった」と記載すべきですし、例え一騎打ちの事実がなかったとしても、多少事実を誇張させて記録してもよいはずです。

ところが、あえて荒川伊豆守という武将が登場するということは、「上杉家御年譜がまとめられた当時、武田信玄に襲い掛かった武将が荒川伊豆守であることが確かな伝聞として、或いは資料として残っていた可能性が高い」と思うのです。

つまり、信玄と謙信の一騎打ちは史実として疑わしい。 「ただ、謙信本人だったら嘘くさいけれど、マイナーな武将があえて登場するならばその点はリアルっぽい」 と思うです。

タイトルとURLをコピーしました