徳川家康の晩節
こんにちは。管理人のエスポワールです。今回は徳川家康の墓である久能山東照宮と日光東照宮を紹介します。
徳川家康は1603年に徳川幕府を開きますが、家康が江戸幕府の将軍だった期間は短く、1605年に家康が存命の間に将軍職を息子の秀忠に譲ります。しかし、当時の家康は生活の拠点を故郷の駿府城へ移しただけで、「江戸の将軍」に対して「駿府の大御所」と称され、将軍以上に権力を持ちます。そして、その頃の江戸と駿府の二元政治体制を「大御所政治」といいます。
下の写真は現在の駿府城跡です。
将軍職を退いた後の家康の最も大きな功績は、豊臣家を滅亡させた大阪冬の陣(1614年)と大阪夏の陣(1615年)です。家康は幼少期の苦労話が強調されて忍耐強さが評価される反面、自身が権力を持った際には次に手番を渡さないように反乱分子と思われる勢力は小さくてもつぶしにいきました。また、徳川家の内部紛争も予防すべく、家督の継承も自分に力がある間に、家康→秀忠→家光までの権力のリレーを盤石にしました。
つまり、家康は亡くなる直前まで幕府の制度設計に関与し、趣味の鷹狩りをのんびりと楽しむような優雅で静かな隠居生活はほとんどなかったということになります。
結局、家康は1616年の4月に亡くなりました。
徳川家康の遺言と亡骸の所在の謎
徳川家康は臨終の際、死後の扱いについて次のような遺言を残しています。
- 葬儀は江戸の増上寺で行うこと
- 位牌は三河の大樹寺に納めること
- 遺体は駿府城近くの久能山に納めること
- 一周忌を過ぎたら日光に小さなお堂を建てて勧請すること
というものです。
注目すべきポイントは「 日光に小さなお堂を建てて勧請すること 」の部分です。通常の意味であれば「勧請」とは「日光にも分祀して東照宮を作りなさい」という意味に留まり、「自分の遺体も実際に移動させなさい」の意味ではありません。また、日光には家康の墓こそ比較的簡素に作られましたが、結果的には小さなお堂だけでなく豪華絢爛な社寺も作られました。もちろん、家康ほどの人物ですから遺言通り本当に「小さなお堂」を作るだけにとどまらなかったという点は理解できます。
それでは、なぜ日光に家康の亡骸が移動したのか。或は、本当は久能山に留まったままのかが興味深い謎ということになります。日光への勧請に関しては天海という家康の側近の僧侶の発言力が大きかったと言われていますが、天海の話題に関してはここでは触れません。
下の写真は葬儀が行われた現在の増上寺です。
久能山東照宮へ行く
久能山東照宮には2通りのアクセスがあります。1つ目は日本平からロープウェイに乗るアクセス。2つ目は久能山下から徒歩で1159段の石段を登るアクセスです。今回は行きはロープウェイで向かい、帰りは石段を下りました。
こちらが日本平から見える太平洋の眺めです。
こちらのロープウェイで久能山東照宮まで向かいます。所要時間は5分です。
久能山東照宮に到着します。
写真右側に石垣が見えます。こちらは久能山東照宮が建てられる以前、久能城があった名残です。
こちらは入り口付近の案内図です。徳川家康だけでなく織田信長と豊臣秀吉も祭神となっていました。
階段の先に楼門が見えます。楼門というと単に「立派な門」というイメージですが、正確には「二階建てで屋根のある門」のことです。
こちらが東照宮の拝殿です。
こちらが東照宮の本殿です。拝殿と本殿が連結した造りを権現造といいます。
本殿の裏に家康の墓があります。
こちらが家康の墓、ここでは神廟と呼びます。
家康の遺命により岡崎や大樹寺の方向である西向きに建てられています。家康の死から1年後、本当に家康の亡骸は日光へ移されたのでしょうか。神廟を眺めるだけでは分かりません。
こちらが久能山東照宮博物館です。
館内では2019年に静岡県のローカルテレビ局で放送された「余ハ此処ニ居ル」というテレビ番組が視聴できました。こちらの番組では「家康の亡骸は今でも久能山東照宮にある」という内容でした。「静岡県の番組だから日光よりも久能山を持ち上げるような内容だろうな」と思いながら観たのですが、非常にアカデミックで説得力のあるものでした。
こちらは久能山の表参道からの写真です。
続いて宝台院別院へ
こちらの寺は久能山のふもとにある宝台院別院です。
ここには徳川家康の死を看取った家臣であり、久能山東照宮の初代宮司の榊原照久の墓があります。照久は大坂の陣の際に出陣を申し出るも、「久能山は駿府城の本丸だから久能山を守れ」と命じられ、家康の死後も榊原家が代々久能山の警護の役職を担うことになります。
こちらが照久の墓です。墓が久能山の方角を向いています。
また、家康の死因の一つに「鯛の天ぷら食中毒説」がありますが、その鯛を献上したのも照久だったとされています。
日光東照宮へ行く
続いて日光東照宮を紹介します。
日光東照宮は徳川家光の墓を以前紹介しています。
こちらが日光東照宮の表門です。東照宮の社殿のほとんどは1636年に建て替えられたものです。鳥居の先に日光東照宮のシンボルともいえる陽明門が見えてきました。
平日でしたが観光客や修学旅行の学生で賑わっています。
こちらが陽明門です。名前の由来は京都御所の東の正門が「陽明門」という名前で、そこから授かったそうです。陽明門には508体の彫刻が刻まれています。竜や鳥などの動物の彫刻もそれぞれ微妙に表情が異なっています。
また、江戸時代は一般人が陽明門をくぐることは許されていませんでした。
続いて家康のお墓へ向かいます。ここでは奥宮と呼びます。眠り猫がいる門をくぐった先の階段、坂道をしばらく上ると奥宮があります。
途中にはこのような立看板がありました。
こちらが家康の墓です。1965年から一般公開されています。つまり、350年間非公開でした。
この建物の下に家康の亡骸はあるのでしょうか。久能山東照宮と同様に謎のままです。
桜山日光館へ行く
次に岐阜県高山市にある桜山日光館を紹介します。こちらには非常に精巧につくられた日光東照宮のミニチュアがあります。
こちらがミニチュア版奥の院です。
大正時代に飛騨地方出身の木工職人の長谷川喜重郎が日光東照宮の修理を担当した際に建築図面を持ち帰ったため、徳川家とはあまり縁のなさそうなこの地に日光東照宮のミニチュアがあるという訳です。
こちらはミニチュア版陽明門です。緻密なデザインの陽明門が精巧に再現されています。
結局、家康の亡骸はどちらにあるのかという話
結局、家康の亡骸はどちらにあるのかという話なのですが、私は日光にあるような気がします。そのように思う根拠は「家光の墓が日光にあるから」です。
家光は生前から祖父である家康を尊敬しており、臨終の際に以下の遺言を残しています。
- 墓は祖父の家康の眠る日光東照宮に造営すること
- 家康の墓よりも簡素な墓にすること
というものです。家康の亡骸の所在に関しては謎が多いとはいえ、息子の秀忠や孫の家光にはその所在が明らかになっていたと考えます。その家光が「家康と同じ場所に墓を作りなさい」と遺言を残し、実際にその墓が日光にあるということは、日光派の大きな根拠になると思います。
つまり、もしも家康の亡骸が久能山にあるのであれば、家光の墓も久能山になければならないと思うのです。
もちろん、それぞれのお墓を掘り起こしてみれば真実が明らかにはなります。ただ、「当時の人々にとって不可侵の扱いであった歴史的遺産を後世の人々にも謎を残したまま保存していく」というスタンスには賛成です。その方が楽しく日光や久能山を楽しく旅行できるからです。