藤原京訪問記ー持統天皇と皇位継承の難しさを思うー

野原として残る古の都、藤原宮跡

こんにちは。管理人のエスポワール です。今回はかつての都があった奈良県橿原市の藤原京を紹介します。

遠くに見える山々以外にほとんど何も映っていないこちらの写真が奈良県の藤原宮跡です。1300年前は都として栄えていた場所が今では宮殿の柱の遺構が残り、柱のレプリカがあります。

藤原京は日本で初めて碁盤目状に区画設計された都市で、694年から710年までの16年間、日本の都でした。そして、持統天皇→文武天皇→元明天皇の3代の天皇が藤原京の主でした。

跡継ぎ問題が深刻だった当時の皇室

藤原京へ遷都した持統天皇は天武天皇の妻であり、自分の孫を天皇にする為に自身が天皇に即位した女帝です。天武天皇の死後、皇位を継ぐ予定であった息子の草壁皇子(くさかべのみこ)が早逝した為、孫の文武天皇が成長するまでの中継ぎのような形で天皇となりました。

参考までに持統天皇の視点から見た持統天皇の前後の皇位の継承をまとめます。

  • 38代天智天皇(父)
  • 39代弘文天皇 (腹違いの弟)

壬申の乱(弘文天皇と天武天皇の内乱。天武天皇の勝利)

  • 40代天武天皇(夫であり父の弟 )
  • 41代持統天皇(本人)
  • 42代文武天皇(孫)
  • 43代元明天皇(息子の草壁皇子と結婚した腹違いの妹)
  • 44代元正天皇( 息子の草壁皇子と結婚した腹違いの妹の娘 )
  • 45代聖武天皇 (孫の文武天皇の息子)

となります。

このような皇位継承を分かりやすく図でまとめようとした場合、親子関係と婚姻関係が入り組んでいる為に複雑に絡み合う糸のような家系図が出来上がります。

持統天皇が文武天皇の中継ぎとして皇位を継承したことと同様に、元明天皇と元正天皇も聖武天皇の中継ぎ的な役割としての即位となりました。

藤原宮跡と周辺の様子

手前の低い山は持統天皇の和歌にも詠まれた香具山です。

「春過ぎて夏来にけらし白妙の 衣ほすてふ天の香具山」

(春が過ぎて夏がやってきました。夏になると天の香具山に真っ白な衣を干すといいますから)

香久山の標高は152mです。

こちらは藤原宮の奥に見える耳成山の写真です。

藤原宮跡の一部分が野球の練習グラウンドになっています。楽しそうに遊んでいる子供がいました。ただ、ラジコンやゴルフは禁止されています。

訪問したのは冬でしたが春には菜の花と桜が奇麗に咲いています。

天武天皇と持統天皇の墓へ行く

こちらが檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)です。天武天皇と持統天皇の墓陵です。写真ではわかりませんが八角形の形をしています。

こちらの墓陵は幸か不幸か1235年に盗掘された際の記録が残っており、こちらの古墳が天武天皇と持統天皇の墓で間違いないことが確定しています。この時代の墓で被葬者が確実に判明している古墳は非常に珍しいとのことです。また、双方とも天皇になった夫婦の墓が同じ場所にある墓陵はここだけです。

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