2019年10月31日、首里城の正殿が全焼した
2019年10月31日に首里城の正殿が全焼しました。首里城は3度目の訪問なのですが、私にとって首里城は常に改修・補修工事をしているような印象がありました。今回のニュースは3度目にして初めて完全な状態の首里城を見ることができたなと思った矢先の出来事となりました。
首里城を含めて誰もが知っているような歴史的建造物でも、長い歴史の中では火災で焼失した過去があることはよく聞く話です。しかし、防災設備の充実した戦後以降の建造物の火災は非常珍しく、稀なケースとなりました。火災前の姿に戻るまでに10年以上かかってしまうと思われます。
2019年10月25日の首里城の様子
こちらが守礼門の写真です。2000円札のデザインにもなりましたが、現在ではほとんど流通しておらず、発行当初以降は全く見かけません。しかし、沖縄では2000円札が割と使われているそうです。こちらは火災の影響を受けていません。
こちらが首里城正殿です。相変わらず修学旅行の学生さんで賑わっていました。正殿前の広場では中国からの使者を迎え入れたり、家臣が王への謁見の場として使用されました。出火元の建物でもあり、全焼しました。
こちらの写真は首里城の鎖之間と呼ばれる休憩室で提供される、沖縄伝統菓子とさんぴん茶のセットです。沖縄伝統菓子はちんすこうなどを一口サイズに切り分けたものが6品とさんぴん茶がおかわり自由で500円です。
沖縄伝統菓子の説明やお茶の補充をしてくれた若い女性スタッフさんが素晴らしく、首里城訪問では是非おすすめしたい場所だったのですが、こちらも全焼しました。首里城再建後もこちらの店舗の復活を希望します。
こちらが正殿にある玉座です。こちらの玉座は正殿の2階部分にあり、1477年から1526年まで在位した尚真王の肖像画をもとに再現されています。玉座もおそらく全焼しました。
こちらが正殿2階から見える広場の様子です。
こちらが首里城の遺構です。現在の正殿部分は遺構の保護の目的で70センチ程かさ上げして建てられています。首里城の世界遺産はまさしくこちらの遺構部分であり、今回全焼した本殿ではありません。こちらの遺構が今回の火災でどれだけ損傷を受けたのか気になります。
そして、今回紹介したい場所は首里城の遺構の更に下の部分、首里城の建つ高台を南北に縦断するように掘られた塹壕です。
塹壕の入り口部分のみ残る日本軍第32軍司令部壕
こちらの写真が戦争中に沖縄戦を戦った日本軍第32軍司令部壕跡です。入り口部分を見る限りでは単なるほら穴のようにしか見えないのですが、首里城の建つ丘を南北に500m程縦断している為、奥に深い司令部壕の入り口となります。
司令部壕内は司令室だけではなく、台所や電気や通信設備、とても居心地が良いとは思えないのですが、宿泊施設や野戦病院まで併設していました。こちらのほら穴の中で牛島司令官以下、1000人程生活していました。
アメリカ軍の攻撃を避けるために目立たなくしているとは言え、大平洋戦争の沖縄戦の最前線基地がこのような外観であることに驚きます。この司令部壕内でアメリカ軍の「鉄の暴風」とまで称された空爆に耐えていたのです。
結局、1945年4月1日に沖縄本土、首里の北部から上陸したアメリカ軍の攻撃に耐えられるはずもなく、1945年5月27日に第32軍と牛島司令官は沖縄本島南端の摩文仁まで撤退し、首里が陥落しました。
現在、司令部壕内は崩落の危険も高く、内部へ入ることはできません。
摩文仁に残る日本軍第32軍司令部壕と牛島司令官の自決
こちらが摩文仁に残る32軍司令部壕です。こちらの司令部壕は奥行きがどれほど深いか分かりませんが首里の司令部壕と比較して規模が小さくなっているのは明らかです。現代的な感覚では司令部のあった場所という感じですらなく、もはや単なる岩陰です。
結局、こちらでもアメリカ軍の攻撃に耐えきれず、1945年6月23日に司令部壕に程近いこちらの場所で牛島司令官は自決します。自決直前の最後の命令は、「自分の指揮は不可能となってしまったが、直属の上司の命令に従い最後まで戦え」というものでした。
指揮官の自決とともに第32軍は組織として解散し、1945年7月2日に沖縄戦が終結しました。
那覇市内から摩文仁の丘、平和記念公園まで市営バスで行ってはいけないたった一つの理由
バスの本数が少なすぎるのです。
また、那覇市内から直通バスもなく、糸満バスターミナルで乗り換える必要があります。那覇バスターミナルから糸満バスターミナルまでは所要時間45分。糸満バスターミナルから平和記念公園までは所要時間30分ほどです。
ですから、平和記念公園まではレンタカーでのアクセスを強く推奨します。那覇市内よりも那覇空港からの方が近いので、沖縄旅行の最初か最後に行くと良いと思います。