「外国へ行きたい」吉田松陰がかなえられなかった悲願と情熱

「旅人」としての吉田松陰の生涯がテーマ

こんにちは。管理人のエスポワールです。幕末の日本を遊学というスタイルで全国を旅した吉田松陰がテーマです。

遊学という単語は最近はほとんど使われませんが、その意味は「住んでいる土地を離れて学びに行くこと」です。江戸時代、一般人は神社仏閣巡り以外の旅行が認められていなかったのです。そして、本来の旅行をする為には通行手形が必要で、「勉強のために藩を出る」という明確な目的がなければ通行手形が発行されなかったのです。

つまり、通行手形は現代に置き換えると留学ビザのようなもので、一般人の自由な旅行は少しハードルが高かったのです。

松陰と同じ時期に遊学していた人物として、河井継之助がいました。

0-19歳:萩で生まれ幼少の頃から勉強漬け、9歳で藩校の講師に

1830年に吉田松陰は誕生します。

こちらの写真は生家跡です。今は何も無く小高い丘の中腹にある広場にしか見えません。

建物は残っていませんが井戸跡が残っていました。

5歳の時、松陰は兵学師範の叔父の養子となり幼少期から厳しい教育を受けて育ちます。そして、9歳にして藩校の講師となります。

松陰は幼少期から将来を嘱望された長州藩のエリートでした。

20-23歳:九州から東北まで日本を旅する

吉田松陰の初めての遊学は長崎でした。

長崎では当時外国船が出入りしていた出島を訪れて異文化と外国の脅威が迫っている事を知ります。

そして、松陰は痛感します。

「見聞を広めるためにはもっと多くの場所に行って学ばなければならない」

その後、江戸を訪れて佐久間象山に弟子入りし、さらには通行手形が発行されないまま、いわゆる脱藩行為した形で東北地方も訪問します。東北地方を訪問した理由は、非公式に通商を求めて来航していたロシア船を視察する為でした。

そして、衝撃を受けたのは1853年の黒船来航です。

浦賀に到着した黒船を師匠である佐久間象山と見学して近代化したアメリカの脅威を目の当たりにします。そして、

「西洋文化を知る為には国内だけではなく、実際に外国へ行く必要がある」

と確信したのでした。

24歳:渡航への情熱

黒船来航から1年後、ペリーは再び黒船で日本に来航し、日米和親条約の締結後、開港された下田に入港します。

当時の様子が銅像になっています。

そして、今までは脱藩行為を犯してまで国内を旅した吉田松陰でしたが、今度は幕府の命令に反して外国船に潜り込もうと画策します。そのやり方は非常に単純で、アポなしで停泊した黒船に小舟で近づいて乗船し、ペリーに対して「外国へ連れて行ってください」と事前に準備していた書状を渡して直談判するというものでした。

下田開国博物館には松陰が命懸けで黒船に潜入を試みた際に持参した書状が展示してあります。少し長いのですがほぼ全文引用します。

我々二名、吉田松陰と金子重輔はこの書を差し上げます。

我々は中国の書物を読み、ヨーロッパ・アメリカなどの世界を見分したいと望んでいます。しかし鎖国により海外渡航を禁じられ、その夢は胸の中に去来するのみです。幸い、この度、貴艦隊が来訪され、あなた方が仁に厚く、親愛なることを知り、海外渡航の夢が再び生じ、貴船に乗せていただき世界を見たいと希望します。是非この願いを聞き入れてください。

我等の望みを御考慮いただけるのであれば、そのご好意に厚く感謝いたしますが、我国法の禁がある為、この企てが明るみに出れば、我々は必ずや処刑され、あなた方の深い人間性と親愛の情に、大いなる後悔を与えるものとなりましょう。もし、望みをお受けいただけるのであれば、出向される折までは、我々の生死にかかわる危険を避けるため、秘密にしてください。

我々の心情を察し、疑ったり、拒んだりしないでください。両人、謹んで本書状をお渡しいたします。

嘉永七年三月十一日

別啓

この書は、我々の望みです。横浜では漁船で夜陰に乗じて貴船に近付こうと試みましたが、それも出来ませんでした。その後、この地で小船に乗って近付く企てをしましたが、成功しませんでした。どうか我らの望みをかなえて下さるのなら、明晩、柿崎の浜に小舟で迎えに来てください。待っています。

松陰の渡航への情熱が伝わる手紙です。そして、強硬的な攘夷派という印象に反して、松陰のアメリカに対する敬意と礼儀正しさに痺れます。結局、ペリーは柿崎の浜に使者を向かわせることなく、松陰の願いは叶いませんでした。

ただ、ペリーの判断は単に冷淡というものではないと思います。結局、「開港に成功したばかりなのに、幕府に紹介されたわけでもない人物を幕府のルールを犯してまで祖国へ連れて行くことはできない」というだけなのです。

その後、松陰と金子重輔は幕府に捕まり、江戸の伝馬町牢屋敷に入ります。

25-27歳:謹慎処分と松下村塾

翌年、出獄した吉田松陰は萩へ戻るも謹慎処分が続きます。そして、謹慎中に叔父の私塾である松下村塾の講師となります。

生徒の中には高杉晋作・伊藤博文・山形有朋らがいました。

28-29歳:老中暗殺計画と安政の大獄

1858年、吉田松陰は幕府が天皇の許可を得ずに日米修好通商条約が締結されたと知ると激怒し、当時の老中である間部詮勝の暗殺を企てます。しかし、暗殺計画というと一般的には極秘に計画するところですが、松陰は自重を促す弟子たちの意見を聞き入れずに暗殺計画を公にし、藩に協力要請まで行います。当然、藩はこれらの要請を受け入れることはなく、松陰は再び牢屋に入ります。

1959年、松陰は安政の大獄にて処分を受けた諸藩の活動家に連座して江戸にて幕府の事情聴取を受けます。その際、松陰は幕府が把握していなかった老中暗殺計画を自白し、処刑されます。松陰は安政の大獄の最後の処刑者となりました。

こちらが松陰の処刑跡です。

旅と謹慎処分に満ちた吉田松陰の生涯

吉田松陰について語られるとき、常に「松下村塾」という単語がキーワードとしてあります。

確かに、松陰は松下村塾の講師です。ただ、松陰が講師として活動していた時期は2‐3年程度しかありません。ですから、「松陰の志を引き継いだ弟子たちが討幕を実現し、新政府の中枢として活躍した」のような論調はさすがに言い過ぎだと思うのです。

しかし、自身の見聞を広げる為に脱藩して国内を旅行し、さらに、黒船に潜り込んでまで外国へ行こうとして失敗し、牢獄に入ってしまうほどの松陰の行動力とバイタリティーは弟子たちに感動を与え、引き継がれていったのではないかと思います。

吉田松陰が残した意外な功績

最後に、松下村塾が残した意外な功績を紹介します。

実は日常生活で相手を「○○君」と呼ぶことは松下村塾から国会に引き継がれた習慣です。それまでは目上の人を「○○様」、目下の人を「○○殿」と呼んでいたのですが、松陰は塾生に身分の上下にかかわらず対等に議論できるように塾生同士を「○○君」と呼び合うことに統一したのです。

その後、新政府の官僚となった塾生らが国会議員にも「○○君」の呼び方を使うように提案し、全国の学校でも生徒同士の呼び方を「○○君」としたのでした。

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