現存天守12城シリーズ8回目は犬山城
こんにちは。管理人のエスポワールです。現存天守12城シリーズの8回目は愛知県犬山城です。
愛知県犬山市にある犬山城は愛知県と岐阜県の県境を流れる木曽川の左岸にあります。写真のように犬山城は天守の背後の河川側が崖となっています。それ故、犬山城は後堅固(うしろけんご)の城と称されます。
城の背後に川が流れる城で他に有名なのが岡山城です。ただ、犬山城ほど高低差はありません。
犬山城は1469年の応仁の乱の頃に城の原型となる砦が築かれ、1537年に織田信長の叔父の織田信康により天守の2階部分まで築城されました。現在の天守が完成したのは犬山藩初代藩主の成瀬正成が城主となった1617年頃です。
戦の匂いがする城
犬山城の魅力は、戦国時代を生き抜いてきた城らしく、織田家・豊臣家・徳川家が戦略上の拠点として犬山城を奪い合う、戦の歴史があるという点です。戦に巻き込まれながらも当時の姿に近い姿で残っている城は多くありません。
そして、ここで注目すべき点は織田信長と羽柴秀吉の家臣である池田恒興です。池田恒興は織田家の内乱後に犬山城の城主となりますが、以後、織田家と豊臣家の勢力拡大とともに領地を変えていきます。そして、羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍が戦った小牧・長久手の戦いでは、大垣城の城主で羽柴秀吉の家臣であった池田恒興が開始早々犬山城を攻略し、羽柴秀吉が大阪より犬山城へ入城します。
つまり、犬山城は以前の城主であった池田恒興に攻略されているのです。しかも、池田恒興は堅牢な背後から犬山城を攻めています。しかし、そんな池田恒興も小牧・長久手の戦いの終盤で戦死してしまいます。
以降、関ヶ原の戦いと大坂の陣を経て徳川勢力が盤石になってからは成瀬家が犬山城の城主を務めます。
犬山城天守と最上階からかすかに見えた小牧山
こちらが本丸へ続く通路の石垣の写真です。石垣は大きさの整わない石を積み上げた野面積みで積まれています。
こちらが天守の写真です。天守の最上階が縁側のように建物外側に出られる構造になっています。このような天守最上階の構造は現存天守12城のなかで犬山城だけです。
こちらは天守最上階縁側から撮影した写真です。写真中央に見える小高い丘が小牧山です。豊臣秀吉もこの場所から徳川家康の陣取る小牧山を眺めていたのだろうなと思うと感無量です。
最近まで個人の所有物だった国宝
犬山城の大きな特徴は最近まで成瀬家個人の所有物だったことです。本来、国宝や重要文化財といっても、必ずしも所蔵先が美術館や博物館、神社や寺である必要はありません。
ですから、価値のある文化財を大企業が所有したり、老舗企業が代々受け継いだりするような事例は確かにあるのですが、建物の維持管理にも大きな予算が必要な城のような建築物を個人の裁量で管理していたケースは犬山城以外にありません。
結局、2004年に犬山城は成瀬家個人の所有から公益財団法人の所有へと移管されたのですが、その背景には国宝の維持管理が個人では難しいという理由だけではありません。成瀬家が最高税率50%の相続税の支払いが難しくなり、仮に所有する不動産を物納してしまった場合、長年受け継いできた遺産が散在することを危惧したからだそうです。