丁未の乱とは何か
こんにちは。管理人のエスポワールです。今回のテーマは仏教伝来と丁未の乱と聖徳太子です。
丁未の乱とは飛鳥時代587年に仏教の崇拝と皇位継承をめぐって蘇我氏と物部氏が争った内乱です。丁未の乱の「丁未」とはまさに587年という意味で、中国式の暦や方角の呼称に由来します。丁未だけでなく壬申の乱の「壬申」、戊辰戦争の「戊辰」も同様です。
そんな丁未の乱に当時13歳の聖徳太子が蘇我氏側の戦力として参加しています。丁未の乱は仏教の是非をテーマとした戦ですが、その後、聖徳太子が導いた日本人と宗教の関わりについてまとめたいと思います。
仏教伝来と共に伝わる中国の最先端の技術と文化
日本書紀によると538年に日本に仏教が伝わった言われています。ただ、こちらは公式記録として残る確実な数字で、実際に仏教が伝わったのはそれよりも以前だと思われます。
仏教を伝えたのは百済の王の使者や朝鮮半島から日本海を渡ってきた「渡来人」と呼ばれた人たちでした。渡来人は布教を目的として海を渡ってきたのではなく、戦乱期の朝鮮半島の混乱から逃れてきた人々でした。
そんな渡来人は仏教以外にも当時最先端の中国の技術や文化を伝えました。具体的にはため池や用水路の作成といった土木技術、土器や鉄器の加工技術がありました。
それ以前までの日本の人々は稲作の生産能力の向上において「技術」ではなく、雨ごいのような「祈祷」や「占い」が重視されていました。そして、当時の(厳密には現代でも)天皇は祈祷師としての役割があり、そんな非科学的な行為が天皇の求心力の核心にありました。
仏教崇拝をめぐる対立
ところが、仏教が伝わってからしばらくすると仏教推進派の蘇我氏が寺を建てると疫病が流行してしまうということから、排仏運動が起きます。
排仏派の代表格の物部氏は蘇我氏と同様に当時の有力豪族で、大和朝廷の軍事担当でもありました。そして、物部氏は国家を守るべきは今までにあった日本古来の神々であるべきという主張でした。
一方で推進派の蘇我氏は天皇にまで仏教を崇拝すべきと進言するようになり、仏教崇拝をめぐる対立は当時の皇位継承問題と共に蘇我氏と物部氏の内乱にまで発展していきます。それが、丁未の乱です。
丁未の乱ではそれぞれの戦力がどれほどであったかは記録がないものの、多くの豪族が蘇我氏を支持し、物部氏は滅亡します。仏教そのものの是非だけでなく、渡来人の伝える技術や知識は排斥できなかったのです。
そして、将来あの「和を以て貴しとなす」とま言い出す聖徳太子でさえも蘇我氏の戦力として戦に参加しています。その時、聖徳太子は戦地で四天王の像を彫り、「この戦に勝つことができれば堂を建てて四天王を祀ります」と祈りを捧げ、戦に勝利した後、現在の四天王寺を建設したのでした。
丁未の乱ゆかりの地へ
大阪府八尾市の大聖勝軍寺(太子堂)は丁未の乱の戦場にもなった物部氏の屋敷跡に建てられたと言われています。
こちらの水が枯れた池、守屋池は守屋の首をここで洗ったという伝説が残っています。
四天王に囲まれている聖徳太子の像がありました。13歳当時の姿に多少の幼さを感じます。
こちらの写真手前が本堂、奥の大きな建物が新本堂です。
寺の近くには物部守屋の墓があります。
墓の前に立つ控えめな鳥居が印象的でした。
続いて四天王寺へ向かいます。こちらが南門。
こちらが西門。鳥居があります。尚、四天王寺は火災や落雷、台風や空襲などで創建以来、何度も破損と修復を繰り返しています。建物の一部とはいえ、ほぼ同じ時期に建てられた法隆寺が当時の建築様式を残していることがいかにすごいかがよくわかります。
西側からみた中心伽藍の全景です。
こちらの写真手前から、五重塔・金堂・講堂です。3つが直線的に並ぶ配置を「四天王寺式」と言います。
四天王が安置されている金堂には入れませんでした。
感染症の影響から入館時間などが制限されているようです。
大きな影響力を持つ蘇我氏と天皇家が抱えた矛盾
丁未の乱の後、蘇我氏の意向で崇峻天皇が即位します。崇峻天皇は蘇我氏のバックアップの下で仏教を推進し、中国の文化を積極的に取り入れていく方向で政権の運営を期待されていました。
しかし、崇峻天皇にはそれができませんでした。天照大御神を先祖とする神々の末裔であるという神話に由来する天皇家の権威が仏教を推進していくことで失われていくことを危惧したのです。
結局、崇峻天皇は蘇我氏の意向に反する形で排仏派に方向転換し、その挙句、蘇我馬子に殺されてしまいます。
天皇家は「仏教を推進すれば影響力が衰え、仏教を排斥すれば蘇我氏を敵にまわす」という厳しい立場にありました。
崇峻天皇の後継として即位したのは、聖徳太子の叔母にあたる推古天皇でした。そして、推古天皇は蘇我馬子の姪でもありました。つまり、実質的な権力はもうすでに蘇我馬子と、当時は摂政という立場にあった聖徳太子の二人に掌握されていきました。
蘇我氏の強烈な影響力の下で摂政として聖徳太子がどのようなスタンスで仏教に向き合うかが注目されました。
「仏教と神道をどちらも敬いなさい」の選択
聖徳太子の選択は「どちらも敬いなさい」でした。
まず、聖徳太子だけに関して言及するならば、丁未の乱の際に蘇我氏と共に戦い、仏像を彫って勝利を祈願し、戦に勝利した後に四天王寺を建設するほどですから、蘇我氏との相性も悪くはなかったはずです。そして、十七条の憲法に「三宝(仏・法・僧)を敬え」とあるように、明らかに仏教推進派です。
こちらは法隆寺です。
しかし、一方で
歴代の天皇が山や川の神々を敬いながら世を治めてきたように、我々も神々への祭祀を怠ってはならない。群臣は心をつくして神を祀りなさい
という敬神の詔も出すのです。
蘇我馬子が敬神の詔に対してどのような反応をしたのかに関しては、私が調べた限りでは明確な記述がありませんでした。
宗教観の原点と日本人らしさ
続いて聖徳太子が「どちらも敬いなさい」とした理由や背景を考えてみたいと思います。
これは決して聖徳太子が天皇家を取り巻く厳しい環境の中で優柔不断な決断をしたというわけではありません。
聖徳太子は皇族という地位から、仏教の教えの素晴らしさと先進的な文明を身近に学ぶことができる立場にいました。
しかし、少年期には蘇我氏と物部氏との争いに参加して勝利するものの、青年期には神道を否定されたような矛盾に苦しむ親族や、考え方の違いから蘇我氏に殺害される親族を身近に見てきました。
そして、摂政となり「日出づる処の天子」として中国や朝鮮半島とも別の国であることを明確にアピールするためにも国内が乱れてはならず、 宗教の素晴らしさだけでなく、宗教観の違いが今後また大きな争いの種となる危険も感じていたのです。
そういった複雑な要素が絡み合う中での絶妙な結論の落としどころが「どちらも敬いなさい」であり、究極的に合理的な判断だったと思うのです。
日本人の多くは神社に初詣に行き、クリスマスパーティーを楽しみ、お寺で葬式をします。
これは日本人は「無宗教」とも言える一方で、「思想の違いを排除しない」とか「良いものは何でも受け入れる」という柔軟性や合理性を持ち合わせています。
これらはまさしく当時の聖徳太子の政治スタンスに由来する宗教観の原点であり、日本人らしさそのものといえます。