関ケ原古戦場と鹿児島市福昌寺跡訪問記ー島津の退き口に敗者の覚悟と狂気をみるー

島津義弘をテーマに関ケ原と鹿児島を旅する

こんにちは。管理人のエスポワールです。今回は戦国武将の島津義弘をテーマに、天下分け目の関ケ原の戦いの現場と歴代薩摩藩主が眠る鹿児島市の福昌寺跡を紹介します。

島津義弘は薩摩藩の武勇に優れた戦国大名で、通称「鬼島津」と称されます。そして、「最強の戦国武将ランキング」のようなランキングでは常に上位にランクインしています。ただ、関ケ原の戦いでは西軍として参加した為、島津軍にとっては負け戦です。

ここでは、現場を紹介する前に島津軍が関ケ原の戦いにおいて西軍として参戦した経緯と、強烈な印象を残した退却劇、通称「島津の退き口」を紹介します。

関ケ原の戦いにおける島津軍の消極的な西軍での参戦

当初、島津軍は東軍に加わる予定で、京都の伏見城を守る徳川家康の重臣である鳥居元忠と合流予定でした。しかし、鳥居元忠に入城を断られてしまい東軍に参加できなかったのです。

理由は明確になっていませんが、史実として明確なことは薩摩藩の石高(70万石)の割には兵力の動員が非常に少なく、1700人ほどだったのです。つまり、敵にしても味方にしても戦力として計算できるほどの兵力を薩摩藩の内政事情により島津家は動員できなかったのです。参考までに、兵力の動員に関しては備前藩の宇喜多秀家が57万石・18000人、筑前藩の小早川秀秋が37万石・15000人です。尚、関ケ原の戦いにおける最大兵力は徳川家康の30000人です。また、意外にも石田三成も6000人という寡兵での参加でした。

ただ、島津軍にとっては伏見城で合流しないほうが良かったと思われます。理由は伏見城で籠城した鳥居元忠も西軍の攻撃に耐えられず戦死し、伏見城も落城しているからです。上の写真は現在の伏見城です。

また、結果的に西軍として参加した島津軍でしたが開戦後も積極的に戦うこともなく、周囲では小早川秀秋の裏切りにより西軍は総崩れし、石田三成も戦場から撤退します。その時、島津軍の兵力もすでに300人まで減少し、島津義弘も切腹を試みます。しかし、一緒に参加した甥の島津豊久が「戦は負けましたが薩摩藩の存続のために義弘公は撤退してください」と提言します。ところが、周囲は東軍の兵士ばかりで退路にもすでに撤退した西軍の兵隊を追走する東軍の兵士であふれていたのでした。

こちらの写真は当時の島津軍の陣地跡です。

死を覚悟した島津軍、敵陣を突破して退却するー島津の退き口とは何かー

そして、300人の島津軍は敵陣の正面突破を試みます。 もちろん、徳川家康の本陣を守る本田忠勝や井伊直政も島津軍の突破を阻止しようと試みますが、島津軍の勢いを止められず、分厚い東軍勢の裏へ抜けていきます。その際、島津軍は「生涯57回の戦においてかすり傷一つも負わなかった」という伝説まで残している本田忠勝を落馬させています。

その後の島津軍の撤退戦法は「東軍の追撃に対して、本体と離脱した小隊が敵集団と死ぬまで戦いながら時間を稼ぎ、次の追撃舞台が迫るとさらに本体と離脱した小隊が死ぬまで戦い、本隊が逃げる時間を稼ぐ」というもので、トカゲのしっぽ切りを地でいくものでした。また、背後へ抜けた島津軍を追走してあと少しのところまで迫った井伊直政も銃撃を受けて負傷してしまいます。

このように、島津の退き口のエピソードでは、「負けた側が敵に背中を見せて逃げては殺される、命懸けで向かっていかなければ生き残れないという、敗者の覚悟と狂人的なメンタル」と「勝ち戦にもかかわらず、死ぬ気で向かってきた島津軍に本気で立ち向かいたくないという、勝者の余裕と臆病なメンタル」の対比が秀逸です。決して「島津軍が強くて徳川軍が弱かった」という単純なものではないのだろうなと思います。

結局、80名が大阪城の人質をついでに救出して薩摩に戻ったのでした。 そんな島津軍の命がけの退却による薩摩隼人の無念と鬱憤は250年後の討幕により晴らされることになります。

こちらの写真は徳川家康の本陣跡です。

薩摩藩歴代藩主の墓、福昌寺跡へ行く

多くの犠牲を出しながらも薩摩へ戻った島津義弘は83歳まで生きます。島津義弘は 関ヶ原の戦い当時、年齢は徳川家康よりも年上でしたが、徳川家康よりも後に亡くなります。

こちらが島津義弘の墓です。

こちらが福昌寺跡の墓所の全体の地図の写真です。鎌倉時代の藩主から江戸時代末期の島津斉彬まで、500年間の墓が集結しています。藩主の墓が増えるたびに区画を拡大していますが、敷地内に不規則な段差や、年代順に画一的に墓を並べることができなかったことによる不自然な構造が際立っています。墓石の劣化具合もそれぞれの年代で異なるので、敷地を歩いているだけで楽しめます。

現場へ行った当日は隣接する 鹿児島玉龍高校の吹奏楽部の練習する音がガンガン聞こえてきて墓所にしてはかなり騒がしかったのですが、この学校は福昌寺が元々あった場所に建てられました。福昌寺跡は観光名所ではなく目立つ案内標識がないので、こちらの学校を目標に訪問するとよいと思います。西郷隆盛の墓がある南洲公園から徒歩で10分程度の場所にあります。

関ケ原、島津義弘陣跡にある関ケ原戦跡踏破隊の碑

こちらは関ケ原の戦いの島津軍の陣地跡にある石碑です。この石碑の解説盤には一部の区間では電車を利用しているそうですが、「昭和35年以降に夏休みに実際に関ケ原から大阪までの島津軍の退却経路を実際に歩いた踏破者の氏名を刻んだもの」とあります。

郷土の偉人を称える姿勢は素晴らしいと思いますが、いくら何でも関ケ原から大阪まで(およそ130km)歩くなんてやりすぎです。地元の人間ならともかく、鹿児島から来た人間が実行するのはかなりきついはずです。

実際に踏破した人に参加した動機や踏破した感想や道中の苦労話を聞きたいものです。けれど、案外「400年前に郷土の先人たちが成し遂げたことに比べれば大したことないですよ」とさらっと言いそうな感じがします。

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