「攘夷は不可能」を痛感した2つの戦争を巡る旅

薩英戦争と下関戦争

こんにんちは。管理人のエスポワールです。今回は幕末の日本が欧米諸国と一戦交えた2つの戦争を紹介します。

具体的には薩英戦争と下関戦争の2つの戦争です。ただ、日本対欧米諸国という構図ではなく、正確には「薩摩藩対イギリス」、「長州藩対イギリスフランスオランダアメリカ連合軍」です。

結果は当然薩摩藩の負け・長州藩の負けです。しかし、この2つの戦争に負けた薩摩藩と長州藩の武士たちが幕末の日本を動かし、明治新政府の中心的な役割を果たしていきます。

2つの戦争の負けから薩摩藩と長州藩が学んだことは「攘夷は不可能」ということです。

「攘夷は不可能」を実際に血を流して痛感した薩摩藩と長州藩が幕府や他の藩よりもいち早く自分たちの現状、取り巻く環境を理解します。そして、つい先ほどまで戦争をしていたイギリスとの間で武器の輸入や先進技術の導入などの交流が行われ、幕府を凌ぐ軍事力を蓄えていきます。

今回は2つの戦争の現場の紹介を歴史の流れに沿って紹介していきます。

2つの戦争に至る経緯と背景

井伊直弼が朝廷の許可を得ずに日米修好通商条約を結ぶと、輸出された生糸やお茶を中心に国内は品不足が起こり物価が高騰します。これらの市中経済の混乱により幕府への不満が高まっていきます。

そうなると人々の間では「尊王攘夷」という考えが盛んになります。「尊王」とは「開国した幕府はダメ、やはり天皇が国を動かすべきだ」という考え。そして、「攘夷」とは「外国を日本から追い出そう」という考えです。「尊王攘夷」は一つの単語として扱われますが、正確には「尊王」と「攘夷」の2つの考えをまとめたものです。

それに対して幕府では「公武合体論」という考えが出てきます。「公」は天皇、「武」は幕府の意味です。幕府は日米修好通商条約で関係を悪化させてしまった朝廷と関係を修復し、幕藩体制を維持しようとしたのです。

「尊王攘夷」と「公武合体」の2つの考え方を比較した場合、政治的な権力を手に入れるという意味では、朝廷からすると「尊王攘夷」の考え方のほうが都合がよいように思います。しかし、実は違います。当時の孝明天皇は「外国が嫌い」というスタンスでしたが、攘夷には幕府の力が必要だとも考えていました。つまり、公武合体派だったのです。そして、朝廷は攘夷を条件として1862年に天皇の妹、和宮と14代将軍家茂の結婚を認めたのでした。

このような経緯を経て天皇と幕府の協同体制により攘夷が実現していく予定でした。しかし、国内では尊王攘夷派と公武合体派の対立の激化と今回のテーマである2つの戦争により、攘夷の実現どころか外国の強さを見せつけられたのでした。

生麦事件と薩英戦争

1862年9月14日、現在の横浜市鶴見区生麦付近で薩摩藩主島津茂久の父、島津久光の行列に乱入したイギリス人3名を薩摩藩士が切りつける事件が起こります。これが生麦事件です。

上の写真は生麦事件の現場の写真です。解説板の掲示があるものの、現在は普通の民家の前の道路です。

事件から2日後、自国民を殺害されたイギリスは幕府に対して賠償金を請求し、幕府は薩摩藩の過失を認めるものの、薩摩藩は犯人を差し出そうとしません。そこで1863年8月、イギリスは戦艦を鹿児島に軍艦7隻を派遣し武力行使による解決を試みます。これが薩英戦争の始まりです。

上の写真は薩英戦争の現場となった鹿児島県の錦江湾です。桜島から撮影し、湾の奥側が鹿児島市街地です。

上の写真は最初の砲撃場所となった天保山砲台跡地です。

薩摩藩はイギリス側にも大きな損害を与えたものの、開始からわずか3時間で城下町は壊滅的な被害をうけます。

上の写真は薩英戦争の薩摩藩の本陣跡(万福山千眼寺)です。当時、薩摩藩の居城であった鶴丸城が大砲の射程圏内に入る海岸の近くにあった為、内陸部のこの場所に本陣を置きました。現在は民家の片隅の敷地に石碑が残るだけです。

上の写真は当時のイギリス軍の武器だったアームストロング砲です。

後にアームストロング砲は新政府軍の武器としても活躍しますが、その威力を最初に目の当たりにしたのが薩摩藩士でした。当時の薩摩藩の砲台からの射程圏はせい1キロ程度でしたが、アームストロング砲は3-4キロの射程圏を持つ兵器でした。

アームストロング砲に関しては以前こちらの記事でも紹介しています。

上の写真は祇園之洲砲台跡地にある薩英戦争の慰霊碑です。大名行列の槍をデザインのモチーフにしています。

下関事件と孤立する長州藩

幕府は1863年5月10日を攘夷決行の日として朝廷と約束します。そして、その当日に長州藩は下関海峡を通過する外国船に砲撃します。これが下関事件です。

上の写真は下関事件の現場となった関門海峡です。関門橋の向こう側から砲撃が行われました。この場所は海峡の幅が最も狭い箇所で両幅が1000mほどしかありません。

長州藩は単に朝廷と幕府の攘夷の方針に忠実に実行しただけという立場ですが、事実は異なります。

それは、幕府は攘夷の実行を諸藩に通達する一方で、諸外国との勝ち目のない戦争をすれば、その被害が甚大なもとのなることも伝えていました。そして、各国大使には開港していた港の閉鎖と外国人の退去を文書で通告するものの、すぐにその通告を撤回します。

その後、幕府は長州藩に対して幕府の方針がまとまるまで外国船への砲撃を慎むようにと通告しますが、長州藩や攘夷派の公家たちは納得しません。結局、薩摩藩と会津藩が結託して孝明天皇の了承のもとクーデターが起こり、長州藩や攘夷派の公家達は失脚し京都から排除されます。これが八月十八日の政変です。こうして長州藩は孤立していきました。

下関戦争

長州藩の単独での攘夷の決行の1年後の1864年、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの連合軍が封鎖されていた下関海峡を攻撃します。

上の写真は関門海峡の山口県側のみもすそ川公園に設置してある当時の大砲のレプリカです。天保製長州砲という名称です。戦争に使用された実際の大砲は戦利品として連合国軍に持ちされれました。

連合国の武器は薩英戦争同様、アームストロング砲です。

4カ国の連合国軍艦17隻は早々に砲台を撃破し市街地に上陸すると長州藩は講和を申し入れます。講和交渉の代表の高杉晋作は300万ドルの賠償金の請求を幕府に回し、その負担は新政府にも引き継がれ1884年まで支払いが続きました。

上の写真は長州藩の代表として講和交渉にあたった高杉晋作です。

尚、下関海峡は源平の戦いの最終決戦の地でもある壇ノ浦の戦いの現場でもあります。壇ノ浦の戦いに関しては以前こちらの記事で紹介しています。

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