最後の被爆都市「ナガサキ」訪問記

原爆を積んだボックスカー号、小倉から長崎へ

こんにちは。管理人のエスポワールです。今回は長崎市の原爆関連慰霊碑を紹介します。

1945年8月9日9時42分、原爆を積んだボックスカー号は原爆の投下目標都市である小倉市上空を飛行していました。しかし、爆撃手のカーミット・ビーハンは雲や霧の影響により目視による市街地の確認に失敗します。その後、別ルートで雲間から市街地の目視を試みるも失敗し、さらに3度目の飛行ルートから市街地の目視を試みるもやはり市街地は見えてきません。

45分後、小倉上空にさらに雲がかかり、さらに燃料に余裕がなくなったボックスカー号は第一目標都市である小倉市から離脱し、第二目標都市である長崎へ進路を変更しました。

小倉市が被爆を免れた要因は当日の天気でした。

平和公園

爆心地北側に位置する平和公園エリアは被爆以前は刑務所でした。入口のエスカレーターは2013年に完成したものです。広島と同様に「平和記念公園」の呼ばれることもありますが、正式名称は単なる「平和公園」です。

松山町防空壕郡跡

こちらはエレベーター造成工事の際に発見された防空壕です。当時、壕の中で遊んでいた9歳の少女が町内で唯一の生存者となった場所です。

平和の泉

被爆した際に多くの人々が火傷やのどの渇きにより水を求めて亡くなりました。近くを流れる浦上川では死体であふれかえっていました。

長崎の鐘

原爆投下後33回忌に21000世帯の拠出金により建立されました。鐘の上の子供のデザインがキリスト教絵画の天使のように見えます。

平和祈念像

1955年に完成した平和記念像は右手は原爆の脅威を、左手は平和を表しています。

像の制作は長崎県出身の彫刻家である北村西望氏によるものです。そして、従軍経験もあり元重量挙げ選手でもある吉田廣一氏が銅像のモデルになっています。ただ、「元軍人をモデルとし、ギリシア彫刻のようなデザインに仕上げた銅像が長崎の平和の象徴としてふさわしいのか」という考えもあり、長崎市の原爆投下のシンボルのような銅像でありながら同時に悪評も聞こえてきます。

2019年にローマ教皇が来日の際に教皇は長崎で核廃絶の演説を行いましたが、演説の場は平和祈念像の前ではありませんでした。

浦上天主堂

こちらのカトリック浦上教会は原爆投下によって破壊された長崎市の名所の一つですが、原爆遺構の多くは残されずに再建されました。

その理由についてカトリック長崎大司教の山口愛次郎はこのように説明しています。

天主堂の立地がキリスト教の禁教時代に信者たちが踏み絵を強いられた屋敷跡にあり、その場所に教会を建てたことに意味がある為、教会の再建はこの場所で行うべき。遺構を残して新教会を移転、再建することは信仰上受け入れられない

こちらは天主堂の外に残る聖人像とボロボロになったレンガの外壁です。

こちらの倒壊した鐘楼は現在でも落下した場所にそのまま残されています。

1945年8月9日11時2分

ボックスカー号が小倉を離れてから20分後、長崎県上空へ侵入します。ただ、こちらでも小倉と同様、空は厚い雲に覆われていたのでした。ボックスカーに積んだ燃料も少なくなり、市街地上空でも視界が悪いとなれば原爆は落とせません。

爆撃手のカーミット・ビーハン は原爆投下作戦の失敗を覚悟した時、雲の切れ間から市街地が見えたのでした。

街が見える!雲の切れ間に第二目標発見!

この瞬間、長崎市への原爆投下が決まりました。投下された原爆は目標とされた工業地帯、市街地中心部から3キロ北へそれて爆発しました。

こちらは被爆により鳥居が半分に残された山王神社の鳥居です。

爆心地へ行く

長崎原爆の爆心地は現在は公園として整備されています。被爆前は別荘のテニスコートでした。平和祈念像に立ち寄らなかったローマ教皇が核廃絶の演説をした場所がこちらの爆心地です。

浦上天主堂遺壁

爆心地にあるレンガ造りのモニュメントは浦上天主堂の数少ない遺構です。正確には南側壁面の一部だそうです。

長崎原子爆弾落下中心地碑

こちらが爆心地です。空中で爆発したので正確には「爆心地の真下」ということになります。高さ6mの黒い柱が静かに建っています。静かに感じた理由は、「核廃絶」や「平和への願い」や「過ちに対する反省」といったメッセージ性が前面に出ていないからだと思います。

爆心地から上空を眺めます。当日は雨が降っており、空を見上げても何も見えません。被爆した当日も上空に雲はかかっていましたが、流石にこの日の天気より良かったのではないかと思います。

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