河合継之助率いる旧幕府軍がガトリング砲で新政府軍を迎え撃つ
こんにちは。管理人のエスポワールです。今回は新潟県長岡市の英雄、河合継之助を紹介します。
1868年の戊辰戦争の際、長岡藩の河井継之助は薩長中心の新政府軍と幕府・会津藩との間に立ち、双方を和解させる為の仲介を試みつつ、「武装中立」を標榜しました。しかし、山形有朋率いる新政府軍の理解が得られず、北越戦争が始まりました。当時の長岡藩の武装の目玉がガトリング砲でした。
こちらがガトリング砲の写真です。ガトリング砲は複数の銃身を回転させながら弾丸を充填・発射を繰り返すことができます。つまり、連射を可能にした機関砲で、毎分200発程の連射が可能でした。こちらのガトリング砲は河井継之助が横浜でアメリカ人の武器商人から購入したもので、当時日本に3台しかないうちの2台を長岡藩が購入しました。また、残りの1台は薩摩藩が購入したそうです。お値段は1台あたり3千両。幕末の1両の価値は現在の20万円に相当するので、およそ6億円に相当します。
しかし、結果としてガトリング砲が北越戦争で十分に活躍したとは言えませんでした。その理由は、重量のある武器であるが故、据え置きでしか使用できないからでした。つまり、いくらガトリング砲では連射が可能と言っても、ガトリング砲自体の移動が不可の為、射程範囲が限定的であることが致命的でした。また、障害物のある市街地では射程対象を捕捉することが出来ず、バラバラで突撃してくる兵隊を迎え撃つには小回りがきかなかったのでした。当時の大砲は最新の武器とはいっても使いどころが難しいということでした。
長岡藩は新政府軍により一度落城した長岡城を再度奪還するという奮闘を見せますが、最後は新政府軍の再攻勢を受けて長岡城は陥落します。
一方、河井継之助は会津藩領へ撤退しますが、ひざの傷から破傷風が併発してしまい、新潟県と福島県の県境の八十里越という峠で死去します。
八十里 腰抜け武士の 越す峠
こちらが河井継之助の辞世の句です。自分を「腰抜け武士」と自嘲しています。その後、戊辰戦争の戦地は会津へと移ります。
河井継之助記念館へ行く
こちらが河井継之助記念館の外観です。長岡市の中心部、河井継之助の生誕の地にあります。
こちらの記念館では河井継之助の生い立ち、遊学していた青年期の記録、そして藩政改革に取り組んだ主導者としての資料が充実しています。
記念館の中に河井継之助を主人公とした司馬遼太郎の小説、「峠」の直筆原稿がありました。小説は読んだことがありませんが、最後の部分の
もし文字の分からないところがあれば赤をいれておいて下さい 司馬
の文章がリアルです。
こちらが河井継之助の銅像です。2020年に峠は映画化されます。公開の映画では河井継之助は役所広司氏が演じます。
こんなものが記念館内に掲示してあります。あくまで子供に向けた注意書きでありますが、妙に心に響きます。
記念館の外に咲いていた梅の花が奇麗でした。
河井継之助の墓に行く
こちらのお寺、栄涼寺の墓地の一角にに河井継之助の墓があります。記念館から徒歩で10分ほどの距離にあります。河井継之助の墓の他にも長岡藩主の牧野家の墓があります。
こちらは戊辰戦争から太平洋戦争に至るまでの戦争で亡くなられた方の供養碑です。
こちらが河井継之助の墓です。墓石の損傷が激しく掘られた文字はほとんど判別不能でした。戊辰戦争の敗者は往々にして 賊軍のレッテルを張られた為、墓でさえもぞんざいに扱われています。