偕楽園訪問記ー水戸の梅まつりへ行くー

日本三名園シリーズ2回目は偕楽園

こんにちは。管理人のエスポワールです。日本三名園シリーズの2回目は茨城県の偕楽園です。

茨城県の偕楽園は19世紀の中頃、江戸時代の末期に完成した水戸藩の大名庭園です。

日本三名園をそれぞれ比較した場合の偕楽園の特徴は300haを誇る敷地面積です。そして、都市公園としてはニューヨークのセントラルパークに次ぐ世界2位の広さとなります。

しかし、梅まつりで有名な偕楽園の本園に限定すれば13haほどです。兼六園の広さが11.7haで、後楽園の広さは13.3haですから、本園だけならば特に広いわけではありません。偕楽園全体の広さには本園に隣接する周辺の公園や千波湖の面積も含まれているのです。

今回は偕楽園の名前の由来と、偕楽園で梅が植樹された経緯などをご紹介します。

偕楽園の名前は中国の思想家、孟子の書物からの援用

偕楽園の名前の由来は、中国の思想家である孟子の書物からの援用です。

古の人は民と偕に(ともに)楽しむ、故に能く楽しむなり

に由来しています。

つまり、偕楽園は「武士も庶民も一緒に楽しめる庭園」を標榜しているということになります。その為、日本三名園の中で唯一入園料が無料でしたが、今後県外からの観光客に対しては有料化の方向で検討が進んでいます。

徳川斉昭公は梅の実の機能性を評価し、偕楽園に梅の植樹をした

偕楽園と言えば梅が有名ですが、梅の木が最初から偕楽園の中にあったわけではありません。

徳川斉昭公が水戸藩へ就藩した際、領内に梅が少ない事を知り、江戸の屋敷の梅の実を集めて育苗したことが始まりです。梅を量産化した狙いは、春を告げる花としての鑑賞用としての美しさだけではなく、戦の際の副食、保存食としての機能性を評価した為でした。

しかし、現在では茨城県が梅干しの生産量や消費量が際立って多いわけではないという点は補足しておきます。梅の生産量、消費量ともに1位は和歌山県です。

水戸の梅まつりに本来の花見の姿を見る

実は私、記憶にある限り一度も花見をしたことがありません。というよりも、花見が好きでもないのです。

その理由は、花に興味が無いというよりは、花を見ながら外でお酒を飲む環境がだめなのです。その為、花見の時期の公園内の酔っぱらいの姿、分別されていない状態の公園のゴミの山、混雑するトイレなどが苦手なのです。

しかし、今回の旅行では、偕楽園で花見をしていた一部の方々が非常に上品に大人しく花見を楽しんでいたこと印象に残りました。

東京の上野公園とは雲泥の差です。花見の時期の花の美しさよりも、花見をする人の姿が印象に残りました。

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