上野戦争とは江戸城無血開城後に起きた、流血の伴う武力闘争のこと
こんにちは。管理人のエスポワールです。今回は上野戦争を巡って、東京上野と新政府軍が使用したアームストロング砲の製造現場となった佐賀市の築地反射炉跡、旧幕府軍として戦った彰義隊の墓所である南千住の円通寺を紹介します。
1868年4月6日、徳川慶喜の新政府軍への恭順の意を確認した西郷隆盛と勝海舟の会談により、新政府軍の江戸城総攻撃が直前で中止となりました。これにより江戸の街が戦火に包まれることなく江戸城が新政府軍に明け渡されました。このような一連の流れがいわゆる「江戸城無血開城」です。
しかし、その3ヶ月後に旧幕府軍と新政府軍との間で流血の伴う反乱が起きているのです。それが上野寛永寺を舞台とした上野戦争です。ただ、戦争という単語を使うには少し大袈裟な感じがします。理由は、新政府軍の軍事責任者である大村益次郎がたった1日で旧幕府軍である彰義隊を壊滅させたからです。
こちらの写真は靖国神社に立つ大村益次郎の銅像です。上野方面に睨みを利かせていると言われています。
上野戦争の現場は現在の上野公園
上野戦争の現場がこちらです。東京の上野公園です。幕末の寛永寺の敷地は現在の敷地よりもはるかに大きく、現在の上野公園全域に及んでいました。
こちらは寛永寺の正門である黒門付近です。現在は門をモチーフにしたモニュメントがあります。こちらが上野戦争の最激戦地となった場所です。現在では大道芸人のパフォーマンスの場です。
彰義隊のリーダー、天野八郎の絶望と山王台跡に立つ西郷隆盛像
黒門の先は山王台と呼ばれる小高い丘になっていました。黒門が新政府軍により突破されそうになった時、彰義隊のリーダーである天野八郎が応戦しようと丘を駆け上がります、しかし、後ろを振り返ると誰も味方がいなかったのです。
この時、天野八郎は
徳川氏の柔極まるを知る
と嘆いたそうです。
新政府軍の圧倒的な戦力差に彰義隊は戦意喪失してしまったようです。
そんな黒門周辺は上野戦争における薩摩藩の攻撃担当区域でした。それ故、黒門を撃破した功績により薩摩藩の責任者である西郷隆盛の銅像がこの場所に建っているという訳です。 決して上野公園で西郷隆盛が愛犬と散歩している微笑ましい様子を銅像にしたというわけではありません。
ただ、西郷隆盛の銅像は本人とはあまり似ていないと言われています。そんな西郷隆盛も西南戦争で新政府軍と戦うことになるのですが、それは上野戦争から9年後の話です。
新政府軍を勝利に導いたアームストロング砲の破壊力
こちらの写真は現在の寛永寺です。上野戦争で寛永寺は破壊されたので、こちらは当時の建物ではありません。
当時の寛永寺の本堂はこの辺りにありました、国立博物館前の噴水池周辺です。
こちらが上野戦争の新政府軍の勝利を決定づけた当時の最新兵器である佐賀藩製造によるアームストロング砲です。当時、1309mと1636mの試射の記録があるそうです。そして、こちらのアームストロング砲は加賀藩の屋敷のあった現在の東京大学本郷キャンパス・医学部付近から発射されました。
発射された砲弾は不忍池を超えて寛永寺の本堂・大門を破壊したのでした。
こちらは東京大学医学部病院15階のレストランからの眺めです。実際の発射台はもっと低い位置にあったと思います。
日本初の実用反射炉、築地反射炉跡へ行く
続いて佐賀藩の大砲製造の現場を紹介したいと思います。
こちらが佐賀藩による日本初の大砲の製造現場である、築地反射炉跡です。大砲の製造は当初は幕府を脅かす外国の軍艦の迎撃が目的でしたが、実際はこのように旧幕府の武士の殲滅に利用されました。
ただ、こちらでは最新兵器の製造現場というよりも、近代的な製鉄技術の発祥の地として名を残しています。最初の反射炉の稼働は1850年と記録されており、上野戦争の18年前の出来事でした。
ちなみにこちらの反射炉跡は現在は小学校の敷地となっています。通常、公立小学校でも都内では関係者以外立ち入り禁止で、正門が閉まっています。しかし、こちらの小学校は史跡の訪問者の為なのか、正門が開放されており、学校関係者以外でも敷地に入ることが可能でした。
戦死した敵兵に対する無慈悲な扱いと円通寺の黒門
こちらの写真は上野公園の西郷隆盛像の裏手にある彰義隊の記念碑です。戦に負けた200名程の彰義隊の遺体はしばらくの間はこの場所に放置されたままでした。そのような状況を見かねた南千住円通寺の住職らにより、この場所で火葬が行われました。戦死した敵兵をさらし者にするような扱いは当時の新政府軍の特徴ですが、徳川家に対する積年の恨み辛みが江戸城無血開城だけではその鬱憤を晴らすことができなかったのかもしれません。
こちらが南千住円通寺にある上野戦争当時の黒門です。近くで見ると弾痕が残っています。
こちらが彰義隊リーダーの天野八郎の墓です。彰義隊の犠牲者の墓は同じ区画にまとめられていますが、天野八郎の墓に対して解説文などはありませんでした。
こちらが現在の円通寺です。建物のデザインが寺院のイメージとかなりかけ離れています。