実現できなかった北朝鮮旅行の思い出
こんにちは。管理人のエスポワールです。今回は新潟市の横田めぐみさんの拉致現場を紹介します。
今から15年以上前、2004年11月頃、私は北朝鮮旅行を計画していました。当時(現在でも)、日本で北朝鮮のツアー旅行を扱う数少ない代理店である中外旅行社とビザの申請書類などをまとめていく最中に日朝関係が急激に悪化しました。
北朝鮮側が提供した横田めぐみさんの遺骨とされたものが、DNA鑑定の結果偽物と判明した為でした。北朝鮮に対するネガティブな報道が続く中、担当者からツアー開催の中止の連絡をもらいました。非常に残念でしたが、驚きではありませんでした。
北朝鮮に対する興味関心はこのころがピークで、それ以降、もう一度北朝鮮へ旅行に行こうと思うことはありませんでした。私のパスポートには入国スタンプのない北朝鮮のビザだけが残りました。後日、発行済のビザ申請費用も含めたツアー旅行費用全額(約20万円ほどだったと思います)が戻ってきました。
1977年11月15日、新潟市の13歳女子中学生失踪
1977年11月15日、当時13歳の新潟市寄居中学校の女子学生が下校中に失踪しました。
こちらが現在の寄居中学校です。当日、失踪した女子学生はバトミントン部の部活動を終えて友人二人と帰宅しました。
こちらが自宅方面への下校ルートです。犯行時間の18時30分頃は街灯も少なく暗かったらしいです。多少の坂道の傾斜を感じながら自宅方面へ向かいます。
こちらの交差点で失踪した女子学生は友人と別れて交差点を自宅方面へ直進します。この場所が最後に目撃された場所になります。そして、この場所に来てまず感じた事は「割と道路が暗くても人通りや交通量があったのではないか」ということです。理由は、おそらく同時刻に下校していたであろう中学校の生徒がいたこと。さらに、当時も現在もこの通りが割と市営バスが通っている為です。さらに自宅方面へ直進します。
バス停がありました。「付属学校前」というバス停ですが、当時は同じ敷地に短大があったそうです。少しわかりずらいのですが、現在でも5本の路線バスが運行中です。おそらく事件当時も短大生の通学用にそれなりの本数のバスがこの通りを走っていたと思われます。失踪現場はすぐ目の前です。
この場所付近が失踪現場とされています。バス停から30m程しか離れていません。このポイントが失踪現場とされた理由は、警察犬の足取りがこの場所で最後で止まったこと、さらにはT字路を左折するとすぐに女子学生の自宅がある為です。つまり、自宅付近で失踪したのでした。
その夜、両親から警察に捜索願が出せれ、翌日以降も自宅周辺及び付近の寄居浜での探査が進めれれるも、進展はありませんでした。
また、「犯人に具体的な捜査がバレることは本人にとって危険である」ことと、父親の滋さんの勤務先が日本銀行であることから、「身代金目的の誘拐」の可能性が高いと判断し、犯人側からの連絡があるのではないかということも想定していたそうです。
そして、大々的に警察が動いた事件にもかかわらず、捜査に支障がでるという理由で翌日の地元テレビや新聞に失踪事件が報道されることはありませんでした。
さらに、当時は北朝鮮の関与の可能性に関しても明らかではありませんでした。当然、現在では当たり前のように使用される「拉致」という単語も当時は使われませんでした。
1977年の横田めぐみさん拉致事件のまとめ
- 女子中学生は下校時に自宅周辺で失踪した可能性が高い。
- 道は暗いが、付近にめぐみさんの通う中学校だけでなく短大もあり、人通りが全くないという可能性は高くないと思われる。
- 道路沿いの短大正門前にはバス停もある。現在も5路線あり、当日も路線バスが頻繁に運行していたと思われる。
- 両親はその日の夜に警察に通報し、身代金目的の誘拐事件の可能性が高いとして捜査が進められた。
- 捜査に支障が出るという理由で多くの警察官が捜査に関与したにも関わらず、事件翌日に失踪事件は報道はされなかった。
- 一方、当時は日本海沿岸での失踪事件が頻発していることも考慮して海上捜査も行われたが、北朝鮮の関与は明らかではなかった。
1997年、横田めぐみさんの北朝鮮による拉致が発覚、そして実名公開
失踪事件から20年後、韓国に亡命した元北朝鮮工作員の安明進(アンミョンジン)の証言が報道されます。その内容は、
20年前、別の工作員が海岸から脱出しようとしたところを目撃されたため、バドミントン帰りの13歳の少女を拉致した
というものでした。
伝聞による情報とはいえ当時の状況と一致する点も多く、この証言により20年前の失踪事件と北朝鮮の関与が明らかになります。そして、この記事によってはじめて20年前に失踪した女子中学生が横田めぐみさんであることが実名報道されます。
しかし、実名で報道されることに関しては問題もありました。実名を公表することにより、むしろ北朝鮮のガードが固くなり、めぐみさんにとってかえって危険ではないかと予想されたため、母親の早紀江さんと双子の息子さんが反対していたのです。
しかし、父親の滋さんの「『新潟市で20年前に失踪したMさん』のような扱いでは世間には信用されない」という強い意志により実名が公表されたのでした。
翌月、日本人拉致問題の早期解決と署名運動や講演活動を行う、「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」が設立されます。家族会の活動により世間への認知は広がっていきました。
1997年の横田めぐみさん拉致事件のまとめ
- 亡命した元北朝鮮工作員の証言により20年前の失踪事件と北朝鮮の関与が明らかになる。
- 横田めぐみさんの実名が報道される。
- 家族会の設立により北朝鮮による拉致問題が少しづつ世間に認知されていく。
2002年、日朝首脳会談で発表された横田めぐみさんの死亡
2002年9月17日、小泉首相が北朝鮮を訪問して金正日との会談が実現しました。会談では北朝鮮側が日本人13人を拉致したことを認め、拉致被害者5人の一時帰国が実現しました。その際、横田めぐみさんの死亡が発表されました。また、横田めぐみさんは1986年に結婚し、翌年に娘のキム・ヘギョンさんを出産した事も伝えられました。
また、第一回日朝首脳会談に関しては外務省内でも北朝鮮の訪問が実現することを知っていたのはごく一部の職員だけでした。さらに、会談といっても友好的なトーンは皆無でした。部屋に仕掛けられた盗聴器を警戒して宿泊せずに日帰りの強行日程が組まれており、小泉首相らは北朝鮮が準備した昼食会への参加も拒否して日本から持参したおにぎりを食べました。
5人の拉致被害者の帰国後、日本政府は一時帰国した5名を北朝鮮に帰すことを拒否します。約束を反故された北朝鮮側は抗議しますが、日本人拉致問題が連日報道される中、素直に拉致被害者5名を北朝鮮に帰すほど日本政府もお人好しではなく、何より世論が5名の北朝鮮への帰国を許しませんでした。
2002年の横田めぐみさん拉致事件のまとめ
- 北朝鮮が横田めぐみさんは死亡したと発表される。
- 横田めぐみさんの娘とされるキム・ヘギョンさんの存在が明らかになる。
- 拉致被害者5名の一時帰国が実現し、日本政府は5名を北朝鮮に帰すことを拒否した。
- 首相の訪朝後、北朝鮮への制裁を望む世論が大きくなっていった。
2004年、北朝鮮が横田めぐみさんの遺骨を提出するも別人と判明する
2004年11月、3回目の日朝実務者協議が開催されました。その際、拉致に関与したとされる人物への聞き取り調査や関連施設への現地視察が行われました。また、北朝鮮は横田めぐみさんの遺骨を提出するも、事後の調査で遺骨は偽物と判明します。
冒頭に触れましたが、この時期に私が参加を予定していた北朝鮮ツアー旅行が一時中断となります。
それ以降、横田めぐみさんの両親とキム・ヘギョンさんとの面会が実現しますが、拉致問題全般において北朝鮮は「生存している拉致被害者はすべて帰国した」「拉致問題は解決済み」という立場を主張しており、具体的な問題解決への目途はたっていません。
2004年の横田めぐみさん拉致事件のまとめ
- 北朝鮮がめぐみさんの遺骨を提出するも事後の調査で偽物と判明する。
- 2004年以降、北朝鮮からの拉致問題に対して新しい情報提供はない。