初めて東池袋大勝軒へ行った時の思い出
こんにちは。管理人のエスポワール です。今回はラーメン店、東池袋大勝軒を紹介します。
初めて東池袋大勝軒へ行ったのは今から20年以上前、私が地方都市に住む高校生の頃でした。大学受験の試験会場の下見の目的で上京し、そのついでに店へ行きました。
上の写真は現在の大勝軒の店舗の写真で、旧店舗は区画整理の為、2007年に閉店しています。当時、世の中にインターネットはまだ十分に普及していませんでしたが、東池袋の大勝軒の知名度は既に雑誌などで紹介されていて全国区でした。
つけめんの創始者でもある店主の山岸氏はその暖かい人柄故、全国から弟子入りに志願して来た人を拒まず、ラーメン作りのノウハウを教えたのです。当時、山岸氏のラーメンを食べたことはなかったのですが、東池袋大勝軒は日本を代表するラーメン店だと勝手に思っていました。東池袋大勝軒店主の山岸氏はどのような人なのか、実際に店に行くのが試験会場の下見以上に楽しみでした。
当日、店主の山岸氏をカウンター越しに見て感じたことは、雑誌の写真で見た氏のイメージよりも遥かに巨体だったことでした。そして、狭い厨房で非常に窮屈どころか、あまり動けていませんでした。そして、さらに驚いたのは手でした。麺を窯から上げる際に大勝軒では平ざるを使用するのですが、ざるを持つ手元に大きなタコ・脂肪の塊らしきものがありました。と言うよりも、山岸氏の指回りが少し変形しているように見えました。長年麺上げすると手元も変形するのだなと思いました。
そして、常連客でもない私から見た山岸氏は、確かに店舗には修行中と思われるお弟子さんたちがいたのですが、温かい人柄が立ち居振る舞いから感じられるようなことはありませんでした。決してオープンな感じではなく、壁があるというか、寂しさと孤独のようなものを感じました。
山岸氏を特集したノンフィクション放映
その後、フジテレビのテレビ番組である、ザ・ノンフィクションで山岸氏が特集されました。
初回放送なのか再放送だったのか分からないのですが、何回かに分けて地方都市では放送されました。その放送では、私が当時なぜ山岸氏から影の部分を感じたのか、非常によく理解できる内容でした。また、手元の変形に関してはラーメンの作り過ぎというよりも、病気によるものだと推測しました。
尚、この山岸氏の放送回は『ラーメンよりも大切なもの』として2013年に映画化されました。映画化された時はタイミングに恵まれて初日に池袋の映画館で観ることができました。その際、山岸氏本人が初日挨拶としてステージに登壇し、来場者には手拭いが配布されました。生前の山岸氏を見たのはこの時が最後でした。
2015年、山岸氏が亡くなる
2015年に山岸氏は亡くなりました。その訃報はヤフーニュースのトップにも掲載されたのですが、そこまでの大事件だったのかと驚きました。
その後、お弟子さんの内部分裂騒動が起きてしまうのですが、一般客には関係ない事なのでここでは触れません。けれど、客の立場として思うことは2000年代後半から「東池袋大勝軒」の暖簾を掲げている店舗でも「あれ?」と思う店舗が増えたのは事実です。
「あれ?」と感じる理由は決してラーメンやつけ麺の味ではありません。メニューがおかしいのです。具体的には、本来期間限定の魚介系つけ麺・味噌ラーメンが定番メニューにあったり、ラーメン二郎を意識した盛り付けをしていたり、卓上の調味料に余計なものがあったり、もりそばの麺がどんぶりではなく、平皿で出てきたりすることなどです。
もちろん、東池袋大勝軒で修業をして独立しても、全く別の名前でこのようなことをやるのは全く問題がありません。しかし、「東池袋大勝軒」の暖簾分けを店構えから思わせておいておきながらこのような状態では、東池袋大勝軒の味を期待して来店した客の期待を裏切らないだろうかと思うのです。この辺りの考え方の違いも弟子たちの内部分裂騒動に発展したのだと想像します。
こちらは東池袋大勝軒本店のもりそばです。
お勧めしたい東池袋大勝軒出身のお店
最後に、のれん分けした店舗にも触れたので、本店以外で山岸氏の味を継承している点で最高峰に位置するお店を紹介したいと思います。
駒込にある「麵屋ごとう」です。99年に西池袋で独立後、駒込に移転しました。この店ではメニュー構成や値段など、東池袋大勝軒の味やDNAを高次元に継承しています。個人的には本店以上にこちらの店で食べています。