2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」とはどんな話かーフライングあらすじ解説ー

「鎌倉殿の13人」というタイトルの妙

こんにちは。管理人のエスポワールです。今回は2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」をテーマにまとめたいと思います。

まず、歴代大河ドラマのタイトルは大きく分けて2パターンあります。それは、「主人公の名前か、主人公の名前以外か」です。

最初に「主人公の名前」について説明します。歴代作品を例に挙げると、「独眼竜政宗(1987年)」「秀吉(1996年)」「西郷どん(2018年)」のようなタイトルです。そして、実際に大河ドラマのタイトルの多くが「主人公の名前」です。この場合、主人公が誰で、いつの時代の作品なのか非常に分かりやすいです。

次に、「主人公の名前以外」について説明します。歴代作品を例に挙げると、「功名が辻(2006年)」「いだてん(2019年)」「麒麟がくる(2020年)」「青天を衝け(2021年)」のようなタイトルです。2019年以降、3作品連続で主人公以外のタイトルが続いています。最近のトレンドなのかもしれませんが60年の歴史を誇る大河ドラマのタイトルの中では少数派です。このようなタイトルの場合、いつの時代で主人公が誰なのか分からないという点においては、善悪はともかく「大河ドラマらしくないな」と感じます。

続いて、今回の「鎌倉殿の13人」についてです。タイトルの系統としてはもちろん「主人公の名前以外」に属します。しかし、このタイトルは「いつの時代で、主人公が誰なのか」が地味に分かる絶妙なネーミングです。

「鎌倉殿」とは「鎌倉幕府の殿様」のことです。今回の場合は2代将軍源頼家と3代将軍源実朝です。「13人」とは2代将軍源頼家の時期に成立した、13人の御家人(家臣・武士)で構成された合議制の政治システムのことです。そして、主人公は御家人の一人である北条義時ですが、父親の北条時政、後鳥羽上皇、北条政子など、非常に個性のある登場人物が揃います。

北条義時・Wikipediaより画像引用

それでは、以下のテーマに沿って「鎌倉殿の13人」の話の流れをまとめたいと思います。とは言っても、現段階では大河ドラマが始まっていませんのでフライングなあらすじ紹介となります。

鎌倉幕府とは「地方の団結した武士たち」

鶴岡八幡宮

最初に物語の舞台となる鎌倉時代がどのようなものか、当時の時代背景に関して説明したいと思います。

まず大事なことは、鎌倉時代とは幕府の力が日本全国に及んでいる訳ではなく、依然として朝廷の影響力も大きいという二元政治的な時代です。しかも、幕府が派遣する守護や地頭、朝廷が派遣する国司などの機能が十分に機能せず、各地で領土争いや略奪が日常的に行われていました。

鎌倉幕府にあったものは原始的な封建制度、つまり、幕府が御家人(地元の武士)に領土を保証する「御恩」と戦いの際に兵士として参戦する「奉公」でした。具体的には、頼朝が御家人に「ここはAの領土」とか、「あそこからはBの領土」のように土地の境界線を決めた時、同じ御家人のZが隣の国のαに土地の所有が脅かされた場合、頼朝が御家人らを招集してαを撃退してくれるのです。ですから、AやBの立場からすると直接自分の領土とは関係なくても頼朝がZの為にαと戦うとなれば、戦力を提供しなければならず、そんな招集命令が「いざ鎌倉」です。

鎌倉幕府のもう一つの特徴は「朝廷からの独立」です。頼朝は朝廷が平清盛に与えた太政大臣のような官位を嫌いました。その理由は朝廷に自身の立場を取り込まれたくなかったからです。つまり、頼朝の狙いは「自分達で鎌倉を中心に国造りをするので干渉しないでね。官位なんていらないから」というものです。そして、同時に頼朝は御家人達にも勝手に朝廷から官位をもらうなと命令しています。そんな頼朝の命令に反した人物が源義経です。義経は平家討伐の最大の貢献者ですが、後白河法皇から「検非違使(京都の治安維持責任者)」の官位を貰うと、頼朝はそんな義経を裏切り者として討伐します。

ただ、そのような幕府の影響力が強く及んでいたエリアも現在の静岡県東部・神奈川県・東京都・埼玉県とその周辺だけで、頼朝のような実績の伴う強烈なリーダーがいなくなれば団結が崩壊しかねない危うい体制でもありました。それが鎌倉幕府です。

そして、そんな頼朝が亡くなった後、物語が本格的に始まり、朝廷との最終決戦である承久の乱の鎮圧でフィナーレというのが本作品の時代設定です。

源頼朝の墓

1199年、13人の合議制の成立

1199年、頼朝が亡くなると頼朝の嫡男の頼家が将軍となります。しかし、頼家は経験不足から十分な政権運営ができませんでした。そこで生まれたのが有力御家人らによる13人の合議制です。具体的には、幕府の運営に関して13人の御家人による会議で事前に方針をまとめ、将軍である頼家が最終決定するというものでした。つまり、頼家の将軍としての権力がある程度形式的な存在になったということになります。

そんな御家人の権力争いが本作品の本筋です。ただ、この権力争いは武士たちの派手な合戦によるものではなく、陰湿なテイストが満載で、まさにそこが来年の大河ドラマの魅力、見せどころになると思っています。

では、以下に13人の御家人を紹介します。御家人は文官・武官に分類しています。カッコ内の数字は13人の合議制が成立した1199年当時の年齢です。

①三好康信(文官・59歳)
②中原親能(文官・56歳)
③大江広元(文官・51歳)
④二階堂行政(文官・不明)
⑤足立遠元(武官・不明)
⑥八田知家(武官・57歳)
⑦梶原景時(武官・不明)
⑧三浦義澄(武官・72歳)
⑨安達盛長(武官・64歳)
⑩比企能員(武官・不明)
⑪和田義盛(武官・52歳)
⑫北条時政(武官・61歳)
⑬北条義時(武官・36歳)

このようにずらりと並べると主人公の義時の年齢の若さが際立ちます。

権力争いに参加しなかった8人

本作品は将軍と御家人たちの権力争いが本筋となります。しかし、権力争いに参加しなかった御家人が8名いるので、最初に彼らを紹介します。作品ではほとんど登場しない人物もいると思われます。

①三好康信(文官・59歳)
下級貴族出身。頼朝が伊豆に流刑されたころからの家臣。ドラマのクライマックスとなる承久の乱の直後に亡くなる。

中原親能なかはらちかよし(文官・56歳)
下級貴族出身。こちらも頼朝の側近として活躍し、朝廷と幕府の折衝役を務めた。1209年没。

③大江広元(文官・51歳)
下級貴族出身。中原親能の弟。頼朝の時代から側近として活躍する。朝廷から与えられた官位も高く、文官として将軍に次ぐ立場にいた。ただ、特筆すべきは義時よりも15歳年上であったが、13人の中では最も長生きしたこと。そして、源平の戦いから承久の乱の後まで幕府の中心にいた唯一の人物。

④二階堂行政(文官・不明)
下級貴族出身。大江の部下であった。実朝が将軍になった頃(1203年)の史料からは既に名前が消えている。

⑤足立遠元(武官・不明)
現在の足立区に由来する、武蔵国足立郡の豪族出身。頼朝の父、源義朝の頃からの源氏の家臣。年齢は不明だが13人の御家人となった時点で既に高齢(60代後半)だった。

⑥八田知家(武官・57歳)
義朝の頃からの家臣。1156年の保元の乱での功績が残っており源氏の最古参の一人。出時に関しては義朝の隠し子説があり、それが前面に出過ぎるとドラマとして少しややこしくなりそう。

⑧三浦義澄(武官・72歳)
現在の三浦半島に由来する相模国三浦郡出身。頼朝・義経の異母兄である源義平に仕えていた。御家人のメンバーの最高齢で1200年に病没。

⑨安達盛長(武官・64歳)
出時は不明。頼朝が伊豆に流刑されたころからの家臣。1200年に死去。

1200年、梶原景時の失脚

権力争いの最初の脱落者は⑦梶原景時でした。景時は以前は平家に仕えていた武士でした。景時は石橋山の戦いで敗走し、洞窟に身を隠していた頼朝を発見するも、仲間には頼朝はここにはいないと報告し、頼朝の絶体絶命のピンチを救った人物でした。また、頼朝に仕えた頃には戦の前線で体を張るだけでなく、教養も高かった為、武官として将軍に次ぐ地位に居ました。

1200年、失脚のきっかけは些細な出来事でした。ある日、御家人の一人である結城朝光が「忠臣は二君に仕えずと言うが、頼朝公が亡くなった時に自分も出家すべきだった」と景時に発言します。この発言を聞いた阿波局(時政の娘)が朝光に「景時が頼家にあなたが謀反を計画していると報告しており、あなたの討伐計画が出ている」と報告するのです。

驚いた朝光は同じ御家人の三浦義村(⑧三浦義澄の息子)に相談すると、今度は「景時の方が仲間を欺く極悪人だ」として、御家人の地位剥奪の糾弾状を作成されます。糾弾状には66名の御家人の連著が集まり、そのことにより景時は失職し、屋敷も破壊されてしまいます。すべてを失った景時は再起を図るべく京都へ向かうと、今度は時政の領内で「たまたま居合わせた」御家人の吉川友兼らに襲撃されて討ち死にしてしまうのでした。

1203年、息子一幡と弟実朝の後継者争いと頼家の幽閉

1203年、将軍頼家は病気を患い危篤状態になります。その時、息子である一幡と弟の実朝との間で後継者問題が浮上します。そして、この後継者争いは実質的には比企家(⑩比企能員ひきよしかず)と北条家(⑫北条時政)の争いとなりました。まず、親子関係を整理すると、比企能員の娘の若狭局は頼家の側室であり、一幡の母親でした。ですから、頼家と比企家は息子である一幡に継がせたいと考えていました。一方、実朝は父親が頼朝で母親が北条政子ですから、北条家は実朝に後継者となってもらいたいという訳です。当時、一幡は6歳、実朝は10歳で、将軍としての資質の有無などは考慮されませんでした。

結局、西日本を実朝が、東日本を一幡が分割統治することになったのですが、そんな状況に反発したのが比企能員でした。能員は「このまま北条家が力を持ち続ければ一幡が将軍にはなれません」と頼家に進言し、頼家は能員による北条家討伐計画を了承するのです。ところが、そんな二人のやり取りを北条政子に障子越しに聞かれてしまいます。当然、政子は時政に状況を報告し、結局、先に時政が仕掛けます。時政は能員に「仏教の行事を執り行いますからこちらの屋敷にいらしてください」と使者を出すと、無防備な状態で時政の屋敷にやって来た能員を切り殺します。その後、時政らは比企氏の館を強襲し、比企氏の一族だけではなく一幡まで殺してしまうのでした。

ただ、比企氏と一幡が亡くなったことで実朝と北条家に権力がスムーズに移行した訳ではありません。理由は、危篤状態にまで陥った頼家が体調を取り戻しつつあったからです。しかし、頼家が復調しても今更居場所はありません。時政はそんな頼家を伊豆の修繕寺に幽閉してしまうのです。こうして3代将軍実朝が誕生しました。

源頼家の墓

1205年、畠山重忠の乱から生じた時政と義時の軋轢

1204年、幕府の家臣である平賀朝雅と畠山重保との間で些細な口論が起きます。口論の中身は不明ですが、ここでは最初に平賀朝雅と畠山重保の縁戚関係を解説します。まず、平賀朝雅は父親の代から幕府に仕える有力御家人の一人であり、時政と後妻である牧の方との間に生まれた娘を正室に持ちます。続いて、畠山重保ですが、こちらも父親の代から幕府に仕える有力御家人で、特に父親の畠山重忠は吾妻鏡をはじめとする歴史書に美談が紹介されるほどの人格者でした。

当然、時政は平賀朝雅擁護派となり、息子の義時と政子に畠山親子の討伐計画を相談します。しかし、義時は「長年忠誠を尽くしてきた親子で、比企氏討伐の際も味方となってくれた畠山氏を討伐するのは軽率すぎる」と一度はその討伐計画を断ります。しかし、結局は父親の命令に従う運びとなり、翌年畠山親子討伐を実行します。以上が畠山重忠の乱の概要です。

ただ、ここで注目すべきは畠山家が時政によって滅ぼされたことではなく、時政と義時、及び周囲の御家人との間で意見の相違があったことです。つまり義時は「今まで散々不意打ちや暗殺で幕府内の立場を盤石にしてきた父親だったけれど、さすがに今回はやり過ぎじゃないか」と親子間に軋轢が生じたのです。

1205年、牧氏事件と義時の執権位強奪

1205年、より一層大きな権力と手にした時政は今度は平賀朝雅を将軍位に就かせようと画策します。しかし、このような時政の計画に横やりを入れたのが義時でした。義時の立場からすると「実朝が将軍位のまま執権位を自分が父親から引き継ぐのであれば問題ない。しかし、将軍位が娘婿である平賀朝雅になるのでは自分への権力の継承が近々危うくなる」と判断したのです。

そこで義時と政子は時政の屋敷を襲撃し、実朝を保護することに成功します。そして、守護として京都に滞在していた平賀朝雅まで殺害するのでした。時政に仕える多くの御家人が義時に味方したことが勝因でした。義時がまだ権力を持っている時期、そして、この瞬間に動けば、時政に仕えている多くの御家人が自分に味方してくれるであろうという奇跡のタイミングで仕掛けた義時のクーデターが牧氏事件です。

また、義時はさすがに父親を殺すようなことはせずに出家させます。そして、出家した時政は1215年に病没するまで幕府の表舞台には出てきません。牧氏事件が歴史の教科書には詳しく解説されることはありません。しかし、時政から権力を奪う義時がどのように描かれるかは本作品の大きな見どころになります。

北条義時屋敷跡(今は何もありません)

1213年、和田合戦に勝利した義時

1213年、義時の権力も盤石になってきた頃、頼家の遺児である千寿丸を擁立して起きた反乱の協力者に有力御家人である⑪和田義盛の子や甥が加わっていたことが判明します。結局、反乱は鎮圧されて終わるのですが、その後の処罰に不満を持った義盛が兵を挙げた戦が和田合戦です。

義時は囲碁を打っていた時に挙兵を知らされますが、慌てることなく将軍の御所の警護を指揮していくと、次第に味方の兵力も応援に駆け付け、幕府軍が勝利しました。

その結果、義時の権力はより強固となり、頼朝の代より幕府に仕える御家人のサバイバルレースの勝者は義時となりました。この時、当初13人いた御家人はわずか4人(大江広元・三善康信・八田知家・義時)になりました。

1219年、実朝暗殺

北条時政・義時親子を中心とした鎌倉幕府の内ゲバ争いですが、そんな陰湿な男たちの争いも将軍実朝の暗殺によって大河ドラマのシナリオ的には華麗な最後を迎えます。

1219年1月27日、実朝は右大臣の就任の儀式を行うべく鶴岡八幡宮に太刀持ち(刀を持って付き添う従者)を従えて向かっていました。太刀持ち役は執権である義時が務めるはずでしたが「急に心神が乱れて」しまい、代役として源仲章みなもと の なかあきらが実朝の側に従いました。実朝を襲撃した犯人は頼家の息子である公暁くぎょうでした。

事件後、公暁もすぐに殺されてしまいますが、この事件は公暁による実朝暗殺の「黒幕」は誰なのかという点が肝となります。「急に心神が乱れた」義時説、複数の御家人説、後鳥羽上皇説がありますが、未だに説得力のある歴史的な史料は出てきていません。実朝暗殺により頼朝直系の血筋は途絶えてしまい、実朝の次に将軍位に就いたのは京都から引っ張り出してきた貴族出身の藤原頼経(1歳)でした。

鶴岡八幡宮

天皇を中心とした朝廷主導の政治を目指す後鳥羽上皇

実朝が暗殺されると大河ドラマもそろそろ終盤戦です。ただその前に、作品のラスボス的ポジションにある後鳥羽上皇について解説します。まず、最初に結論を申し上げますと、後鳥羽上皇のビジョン・目指したものは「天皇・上皇を中心とした朝廷主導の政治」です。

後鳥羽上皇/Wikipediaから画像引用

つまり、後鳥羽上皇は平安時代中期のような貴族(藤原氏)を中心とした朝廷主導の政治ではなく、武士を中心とした政治でもない、自分(天皇・上皇)が中心で自分(天皇・上皇)が最高かつ最強な立場とする国家像を目指していました。そして、後鳥羽上皇は朝廷が管理する荘園の充実を図ることにより経済面を充実させる一方で、後白河法皇が源義経に官位を与えたように、次々と有力御家人に官位を与えて軍事の増強を図ります。この時代は朝廷でも軍拡政策が当たり前でした。

このように、後鳥羽上皇は「天皇を中心とした朝廷主導の政治」という壮大な目標だけでなく、それを実現するだけの行動力もありました。さらに、古今和歌集の編纂に携わるなど、文化人としての評価も高く、まさに文武に優れた最強の天皇でした。

後鳥羽上皇の幕府取り崩し作戦

後鳥羽上皇の官位バラマキ作戦のターゲットには幕府のトップである実朝にまで及びました。後鳥羽上皇は実朝に「右大臣」の官位まで与えることで「実朝は将軍とはいえ、天皇の支配下にある」という事を意味づけようとしました。そして、それは初代将軍の頼朝がモットーとする「朝廷からの独立」に真っ向から対立するものでもありました。

さらに、将軍である実朝も「時政や義時が鎌倉ではやりたい放題でも、上皇から官位をもらう自分の方が立場が上だ」というお墨付きや権威を欲しがっていたのです。頼朝が亡くなってから20年経ち、将軍の考え方や価値観が変わっていったのです。ただ、この変化は実朝が頼朝の考えを否定したという訳ではなく、次々と自身の周囲で起きる内部抗争と北条家の権力の増大に実朝自身が周囲の御家人を信用できなくなっていった、幕府の外側と繋がる安堵を欲していたのではないかと思います。

ただ、後鳥羽上皇にとってそんな実朝が暗殺されたことは、将来的には幕府の取り崩しを目的とするという意味では「驚きだけれど、特に悲しくはない」という認識だと思われます。理由は、実朝はそもそも天皇に仕える忠実な家臣ではありませんし、「天皇・上皇を中心とした朝廷主導の政治」の実現のために官位を与えただけであって、将軍の暗殺による幕府の弱体化は好都合だったからです。

そして、そんな弱体化した幕府に対して後鳥羽上皇が挙兵した反乱が承久の乱です。ここは非常に大きなポイントです。承久の乱は「後鳥羽上皇が挙兵した乱であって、幕府が仕掛けた戦ではない」ということです。

よみがえる承久の乱―後鳥羽上皇VS鎌倉北条氏―/京都文化博物館

1221年、承久の乱ー動揺する幕府と北条政子の演説ー

後鳥羽上皇の反乱の知らせが次々と鎌倉に届くころ、義時の館でようやくまともな会議が開催されます。この場面は本作品の最大の見せ場です。そして、「ようやくまともな会議」というのは、物語のタイトルにあるような将軍と御家人13人が何かを話し合うという場面が今までないからです。権力の暴走、仲間割れ、暗殺といった陰湿なテイスト満載の鎌倉幕府の武士たちが朝廷の挙兵という危機を目の当たりにして動揺し、団結しようとしているのです。

ここであの有名すぎる北条政子の演説が始まります。

「皆さん、心して聞くように。今は亡き頼朝公が鎌倉に政権を築いてから我々の俸禄も増えて豊かな暮らしができました。それらすべては亡き頼朝公の御恩によるもので、その御恩は山よりも高く、海よりも深い。今こそその御恩に報いるべく朝廷と戦うべきです。ただ、それでも朝廷側に付きたいのであれば構いません」

この演説は発言者が政子であったことが非常に興味深い点です。幕府のリーダーは当然義時ですが、この演説の内容で武士たちを団結させるには義時ではなく政子でなければなりません。

1221年、承久の乱ー幕府軍の圧勝ー

鎌倉に兵力を集結した幕府軍は東海道・東山道・北陸道の3方向から京都へ攻め上がります。朝廷軍も滋賀県の瀬田川を防衛ラインとして迎え撃ちますが、最初は攻めあぐねていた幕府軍も瀬田川を渡り切るとその勢いを朝廷軍は止めることができません。さらに宇治川での防衛ラインを突破した幕府軍は京都へ入り、公家の屋敷を焼き払います。

瀬田の唐橋

承久の乱は幕府軍の圧勝という結果となりました。そして、承久の乱は日本の歴史上、「朝廷側が戦を仕掛けて負けた」唯一の合戦となりました。さらに、軍を率いた義時の息子泰時と弟時房は戦後処理と京都における朝廷の監視を目的に六波羅探題を設置します。

六波羅探題跡

一方、後鳥羽上皇は沖ノ島に流され、1239年に没するまで京都に戻ることが出来ませんでした。

後鳥羽天皇墓

「鎌倉殿の13人」、面白い予感しかしない

非常に長くなりましたが、「鎌倉殿の13人」のあらすじとして知っておくべき大きな歴史の流れはこのあたりまでです。結局、本作品は「鎌倉での血生臭い争いを恐るべき狡猾さで制した義時、そして、最後は朝廷と正面からぶつかり合って圧倒した義時の生涯」がテーマになります。

来年の大河ドラマ、ハッキリ言って面白い予感しかしません。

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