大久保利通で繋がる鹿児島と東京、そして福島

鹿児島県鹿児島市、大久保利通の生誕地へ行く

こちらの写真は鹿児島市を流れる甲突川の中流域に架かる高麗橋から撮影した桜島の写真です。高麗という名前は島津家17代当主の島津義弘が慶長の役の際に朝鮮人がこの地に住んだことに由来しています。そんな高麗橋付近のコインパーキングの片隅にこのような石碑があります。

大久保利通生誕の地の石碑です。この地に大久保利通は生まれました。大久保利通の生誕の地が現在は普通の駐車場というのはかなり寂しい感じがします。鹿児島市内では西郷隆盛の圧倒的な存在感に霞んでしまっている政敵の大久保利通ですが、そんな大久保利通の不人気を象徴するような扱いの悪さを感じてしまいます。

この駐車場を見た時、今度は大久保利通が暗殺された紀尾井坂の変の現場と墓所を一度見ておきたいと思いました。

東京都千代田区、大久保利通の暗殺現場の清水谷公園へ行く

1878年5月14日の暗殺当日、大久保利通は明治天皇に謁見すべく赤坂仮御所(現在の迎賓館)へ向かう途中で不平士族6名に紀尾井坂で暗殺されました。

こちらの写真は衆議院第二別館(左)と国会記者会館(右)の写真です。この辺りに大久保利通の屋敷がありました。 午前8時ころ大久保利通はこの屋敷を出発しました。この場所から赤坂仮御所へ行くのであれば赤坂見附の城門を通過するのが近道です。しかし、大久保利通は赤坂見附の城門から出ないで、北白川宮邸(現・東京ガーデンテラス)と伏見宮邸(現・ホテルニューオータニ)の間を通り、清水谷から紀尾井坂を経由して馬喰見附へ至る道順を好んで使っていました。

また、暗殺犯もこのような道順を辿ることを事前に知っていました。尚、馬喰見附に関しては1874年に岩倉具視の暗殺未遂事件も発生しています。

こちらは赤坂見附付近から清水谷方面に至るルートを意識した写真です。右側の建物が東京ガーデンテラスです。

こちらが大久保利通が暗殺された場所に建つ石碑です。大久保利通と親しかった政府高官が建てた石碑で、周辺一帯が公園となっています。

大久保利通は全身16箇所切り付けられて即死しました。暗殺当時、実行犯は6名。大久保利通は馬車を引く人間とお供をする人間の3人で行動し、護身用の武器を携帯していませんでした。近代郵便制度の創設者でもあった前島密は事件直後に現場に駆けつけて、大久保利通の様子をこのように残しています

肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る

事件直後の大久保利通の様子が生々しく表現されています。紀尾井坂の変をきっかけに政府要人に護衛を付けるようになりました。

東京都港区、大久保利通の墓の青山霊園へ行く

続いて大久保利通の墓所を見学すべく青山霊園へ向かいます。

こちらが青山霊園にある大久保利通のお墓です。暮石の高さは3mほどあります。青山霊園には多くの歴史に名を残す方のお墓がありますが、その中でも大久保利通の墓は国家指導者としての威厳に満ちたものでした。

大久保利通の生誕地は鹿児島市のコインパーキングになっていましたが、お墓は都内の一等地の集合墓地内でも大きくて立派でした。

尚、大久保利通の葬儀は事実上の初の国葬で、その時の参列者が黒い礼服を着ていたため、その時から日本の喪服が白から黒に変わりました。

福島県郡山市、大久保神社へ行く

実はあまり有名ではありませんが、大久保利通を神様として祀ってある神社が福島県郡山市にあります。

大久保利通は暗殺される当日の朝、福島県令の山吉盛典と安積疏水(読み:あさかそすい)干拓事業の件で打ち合わせをしていたと言われています。安積疏水とは福島県の猪苗代湖から福島県の安積地方へ至るまでの水路のことです。

大久保利通は志半ばで暗殺されてしまいますが、廃藩置県により職を失った元武士を中心に開拓事業は進められ、安積地方では安積疏水の完成後は米の作付け面積が10倍以上になりました。これらの功績を称えられ、大久保利通の神社が建てられたという訳です。

こちらが郡山市の郊外にある大久保神社です。こちらは鳥居や社殿ががなく、神社というよりも公民館の広場に石碑が建っているだけです。観光客や参拝客はいません。

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