「悲劇の幼帝」安徳天皇稜と壇ノ浦古戦場訪問記

「平氏にあらずんば人にあらず」の時代に生まれた安徳天皇

こんにちは。管理人のエスポワールです。今回は歴代天皇の中で最も悲劇的な運命を辿った1人である安徳天皇を紹介します。

平安時代後期、保元の乱(1156年)と平治の乱(1159年)に勝利した平清盛は太政大臣となり大きな権力を持ちます。そして、平清盛は1172年に娘の徳子を高倉天皇に嫁がせ、1178年に高倉天皇と平徳子との間に誕生した男児が後の安徳天皇です。

このような清盛の婚姻政策と独裁政権は反発も多かったのですが、その勢いは止められません。そして、1179年には高倉天皇の父親でもある後白河法皇を幽閉するのでした。尚、当時の高倉天皇はまだ18歳で、清盛の傀儡に過ぎませんでした。

つまり、清盛がやりたい放題の時期に、娘を天皇に嫁がせて6年後にようやく生まれた子供が安徳天皇でした。男児が誕生した時、清盛は感激のあまりに声をあげて泣いたと言われています。

安徳天皇即位と「おごれる平家」の滅亡の始まり

1180年に安徳天皇は僅か1歳で即位します。もちろん、朝廷の意向は考慮せずに平清盛の独断により決まった即位になります。しかし、安徳天皇の即位はさすがに周囲の反発が大きく、後白河法皇の第三皇子の以仁王(もちひとおう)が源氏をはじめとする反平氏勢力に平氏打倒の挙兵の命令を出します。これがいわゆる「源平合戦」なのですが、最近では「治承・寿永の乱」という名称が使われます。

以仁王の挙兵の命令によって始まった治承・寿永の乱ですが、命令を出した以仁王は平氏軍に敗れて戦死します。また、源頼朝も石橋山の戦いで惨敗します。出だしでつまずいてしまった反平氏勢力ですが、平氏にも大事件が起こります。1181年に高倉上皇が亡くなり、続いて平清盛も熱病により亡くなるのです。

臨終の際、清盛はこのような遺言を残したと言わわれています。

「思い残すことは全くないが、頼朝の首を見ることができないことが不本意。自分が死んだあとは供養などはせず、直ちに兵を挙げて頼朝の首を私の墓の前に供えなさい」

後白河法皇の院政の再開と後鳥羽天皇の即位

清盛の死後、勢力を盛り返した人物が清盛によって幽閉されていた後白河法皇です。後白河法皇は院政を再開し、1183年に高倉天皇の第四皇子、安徳天皇の異母弟になる後鳥羽天皇を正統な皇位継承の証でもある三種の神器がない状態で即位させます。

つまり、清盛の死後、朝廷の中には清盛の意向によって決まった安徳天皇を正統な天皇だと思う人はなく、当時の日本は安徳天皇と後鳥羽天皇の二人の天皇が存在していたということになります。

その後、源義経の活躍により平氏を西の果てまで追い詰めていき、一方で九州地方も源氏の支配下に置きます。そして、治承・寿永の乱の最終決戦となる壇ノ浦の戦いが始まります。

壇ノ浦は現在の関門海峡です。

戦局を変えた壇ノ浦の潮流

こちらが壇ノ浦の戦いの現場です。関門海峡では1日に4回潮の流れが変わります。そんな潮の流れが戦局も変えました。

このように今でも海上で他の船とすれ違うと大きく揺れます。

戦の序盤、海峡の潮目を熟知していた平家勢力が戦を優勢に進めます。一方、不利を自覚した源義経は平家軍の兵隊ではなく、船を操る船頭をターゲットに攻撃する作戦を実行します。乗船した船をコントロールできなくなった平家軍は徐々に勢いを失っていきます。

そして、戦が長引いていくと今度は海峡の潮の流れが源氏軍に味方し、形勢は源氏の勝勢となりました。

安徳天皇と二位の尼の入水

敗戦濃厚の戦局報告を受けた安徳天皇の祖母の二位の尼は自決を覚悟し、安徳天皇にこのように言います。

「あなたは前世の良き行いにより帝となられましたが、悪縁によりその命運も尽きてしまいました。これから極楽浄土へお連れします。波の下にも都はございます」

こうして、二位の尼と安徳天皇は関門海峡に身を投じたのでした。この時、安徳天皇は6歳でした。もちろん、安徳天皇に罪はないのですが、いくら天皇でも政争で敗れたら死ぬに等しい程の惨めな人生を送るということが当時の朝廷と武士の関係でした。そして、それを最も認識していたのが当時の平家一族だったということです。

また、安徳天皇の入水時、三種の神器も海の底に沈みます。その当時、鏡と勾玉は源氏が回収しましたが、剣は回収できずにこの時に失われています。

義経の八艘はっそう飛びと碇知盛

また、一方で平家の武将、平教経たいらののりつねはせめて源氏の総大将の義経だけでも討ち取ろうと義経に襲いかかります。そんな平教経の強襲を義経は八艘の船を乗り移りながら巧みに逃げていくのでした。これを義経の八艘飛びと言われています。

義経の様子が銅像になっています。非常に躍動感があります。

また、平家の総大将である平知盛たいらのとものりは安徳天皇らの死を見届けると、「見るべきものは全て見た。後は自害するだけだ」と言い、入水します。この時、知盛は決して遺体が生きたまま浮かび上がらないように碇を担いで入水したのでした。この様子は碇知盛と言われています。

そんな知盛の様子も銅像となっています。こちら迫力があります。

安徳天皇を祀る赤間神宮と阿弥陀寺陵

安徳天皇を主祭神とする赤間神宮は壇ノ浦の現場のすぐ近くにあります。

神社は海の中の都をイメージして竜宮城のような建物になっています。安徳天皇が水の神、安産の神、水難守護の神として祀られています。

こちらが阿弥陀寺陵です。門の先に陵墓がありますが、門は通常閉じられたままです。植栽がよく管理されています。

しかし、塀の隙間から門の先が撮影できました。

敷地内には平家一門の墓も

敷地内には壇ノ浦で敗れた平家一門の墓もあります。

その先には整形すらされていない墓石がまとめられていただけでした。

簡単な見取り図もあるのですが、石に彫られた文字も読み取ることができます。

こちらは平智盛と平教経の墓石。

こちらは二位の尼の墓石です。

墓の管理が十分に行き届いている訳ではありませんが、平家の栄枯盛衰は十分感じられる場所です。

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