時刻制度の祖、天智天皇を巡る旅

天智天皇陵にある機能しない日時計

こんにちは。管理人のエスポワールです。今回のテーマは天智天皇です。

先日、京都にある天智天皇陵(山科陵)を訪問した際、興味深いモニュメントを見つけました。こちらです。

この写真のモニュメントは天智天皇の陵墓の入口に設置されていたものです。解説板などが周囲にないものの、石碑の中央部は鉄の棒と6から18までの数字、そして、下部には小さく「日時計」書かれており、このモニュメントが日時計であることが分かります。

ただ、残念なことは日時計の設置されている場所が晴天時にもかかわらず背後の建物や植栽の影になってしまっており、時計としての機能が果たされていないという点です。以前は違う場所にあったのかも分からず、少し管理が適当な印象です。

しかし、天智天皇の眠る陵墓に日時計が設置されていることについては歴史的な意味や由来があります。

今回は天智天皇と時計にまつわる場所を紹介していきます。

660年、日本最古の時計が作られる

日本で最古の時計は660年に天智天皇が作った水時計でした。水時計はサイフォンの原理を利用して階段状に設置した水槽に一定間隔で一定の水量を滴り落とさせる構造です。

尚、水時計の仕組み自体は遣唐使により伝わったもので、天智天皇が発明したものではありません。

続いて、こちらの写真をご覧ください。

この写真は奈良県明日香村の飛鳥水落遺跡です。名前の通り、この場所が日本で初めて時計が作られた場所です。

水時計の遺跡とは言っても、その残された遺構は24本の柱で支えられた屋根付きの倉庫のようなイメージです。

こちらは遺構の中央部にある木樋(木でつくられた水道管)跡です。この跡により、この遺構が水の流れる仕組みを建物内に含んだ施設であることが推測されます。

また、この場所は近くに飛鳥寺のすぐ近くにあります。天智天皇(中大兄皇子)が中臣鎌足と出会った場所もこのあたりです。

乙巳の変についてはこちらに以前紹介しています。

天智天皇を祀る近江神宮へ行く

続いて天智天皇を主祭神とする滋賀県大津市の近江神宮を紹介します。神社の創建は1940年ということで非常に新しい神社です。天智天皇が奈良の飛鳥から滋賀県の大津へ遷都したことからこの場所に神社が建てられました。

ただ、近江神宮の特徴は門や本殿ではなく境内にある時計関連施設です。

こちらの時計館宝物館では国内外の様々な仕組みの時計が展示されています。

その他、日時計設置してあります。こちらです。

こちらの日時計は天智天皇稜の日時計とは違い、正確な時間を刻むはずなのですが、訪問時は曇っており日時計が機能していませんでした。

もちろん、水時計もあります。こちらです。

三層に分かれた升から漏れる水の量により、中央部に設置してある矢が浮き上がります。その矢に付けた目盛りにより時間を知ることができます。

こちらの水時計はオメガ社より寄贈されました。

天智天皇が水時計を作った目的

607年、聖徳太子は「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」という、日本と隋との間で外交上の対等な立場を主張した国書を送り、それに対して煬帝が激怒したというエピソードがあります。

645年、天智天皇は日本独自の元号「大化」を制定します。私は日本独自の元号の制定は聖徳太子の国書と同じ意味があると思います。つまり、「日本でもオリジナルの元号をつくりました」という唐への主張があったと思うのです。

ところが、例によって唐は納得しません。そもそも中国から見れば日本の存在はあくまで冊封体制下における親分子分の関係という認識にしか過ぎません。ですから唐の立場からすると、「まともな時刻制度がない、時計すらないのに子分が勝手に元号を制定するなよ」という感じだったと思います。

そして、645年から15年後にようやく完成したのが日本製水時計だったのです。つまり、天智天皇が水時計を作った狙いは「日本独自の元号の確立」と「唐に対する外交上の独立」だったと思うのです。

ただ、天智天皇はそれらの野望を達成できませんでした。せっかく水時計を作ったけれども天智天皇が天皇在位中は唐からの反発を考慮したのか分かりませんが、元号の使用が中断します。そして、663年に百済と共に戦った白村江の戦では唐・新羅の連合軍に惨敗してしまいます。

しかし、その後、唐との交流は669年には再開され、外交上は対等ではなくても軍事的に支配されることはありませんでした。そして、元号も701年の「大宝」以降は1320年経過した現在の「令和」まで途切れることなく続いています。

タイトルとURLをコピーしました