現存天守12城シリーズ7回目は松本城
こんにちは。管理人のエスポワールです。現存天守12城シリーズの7回目は長野県松本城です。
長野県松本市にある松本城は1504年に小笠原氏により築城され、当時は深志城という名称でした。しかし、現在の松本城の原型を整備したのは当時は豊臣秀吉の家臣だった石川数正です。
松本城は築城以降、石川氏・小笠原氏・戸田氏・松平氏・堀田氏・水野氏・戸田氏と様変わりします。よって、松本城にはシンボルとしての城主の家系や顔が今一つイメージできないのです。
漆黒の天守と野面積みの石垣
こちらの写真は松本城の東側、太鼓門です。江戸時代に門の側に時刻を知らせる鐘と太鼓があったことが名前の由来です。
こちらの写真がよく見る構図で撮影した松本城です。赤い橋は埋橋(うずはし)という名前ですが、埋橋が設置されたのは昭和になってからです。現在は埋橋を渡った先の石垣が地震による崩落の可能性がある為通行止めになっています。
もう一枚天守の全景の写真です。松本城というと黒漆塗りの天守が有名ですが、黒い外観の天守は他に岡山城と熊本城があります。背後の青空が天守の黒と白の対比を際立たせています。
最近(2019年3月)、現存する最古の天守との説があった丸岡城の天守が柱などの調査により江戸時代に建造されたものであることが判明しました。このことにより現在の日本最古の天守が松本城となる説が浮上しています。しかし、松本城サイドは「今後も慎重に研究や検証をしていく」というスタンスで、「日本最古説」を積極的にアピールしていくことはしないようです。
実はこの写真は単に看板を撮影したのだけなのですが、興味深いものが写っていました。背後の石垣です。
背後の石垣は「野面積み」という積み方で、大きさの異なる石をそのまま積み上げています。加工をしないで積み上げただけなので、石の形に統一性がなく、石どうしがかみ合っていません。技術的には初期の石の積み方で江戸時代以前の城壁に多く見られます。
天守の内部は鉄砲の展示が充実していました。
登山シーズンの8月上旬の松本でホテル難民になる
また、訪問した当日は8月上旬だったのですが、平日にもかかわらず市内のビジネスホテル30軒近くすべて満室でした。登山シーズンということで北アルプス登山の拠点となる松本に全国から登山客が殺到しているのです。
結局、市街地のラブホテルに一人で宿泊することになってしまいました。登山シーズンであることは知っていましたが平日だからホテルの予約なしでも問題ないだろうと甘く見ていました。
ホテル難民になったのは2004年のクリスマスにモロッコのマラケシュを旅行した時以来です。
松本サリン事件の現場へ行く
続いて松本サリン事件の現場に向かいます。
1994年の松本サリン事件はオウム真理教のテロ事件であり、第一通報者の河野氏が犯人扱いされてしまう冤罪事件でもあります。事件の現場は、松本城から少し離れた閑静な住宅街にあります。
こちらがサリンを特殊車両より噴出した駐車場とその奥に見えるのが河野氏宅になります。雑草も多い青空駐車場は管理の不備も多少感じますが、当時とあまり様子が変わっていないように思います。
個人の敷地なので外から眺めた程度になりますが、河野氏宅も表札は確認できるものの、人が住んでいる様子は感じませんでした。
本当のターゲットとされていたと疑われている松本地方裁判所の寮らしき建物は今でもあります。正確な建物の名称は確認できませんでした。
現場周辺だけでなく市街地も歩きましたが、事件に関する慰霊碑のようなものはありませんでした。「悲惨な事件と教訓を未来に語り継いでいこう」というようなスタンスではないようです。
尚、2018年7月6日にオウム真理教の元代表、麻原彰晃の死刑が執行されました。麻原彰晃が死にました。別に死刑制度の是非をここで取り上げるつもりはないのですが、事件の当事者である河野氏は死刑制度に対して反対の立場で一貫しています。「人は間違うという前提では死刑制度を維持していくことは難しい」と考えているからです。